親の言葉に捉われていたこと
こんばんは
今日は一日中と言えるくらい
お店のオープンからディナータイムになるまで
同じ病気の友だちと喋りまくって来ました。
発症の経緯も、今の状況も、検査の結果も
何でも話せてランチ後には同じ薬を飲んで。
何も考えず、とても楽に居心地よく過ごせる
大切な人です。
その一方で…
病気のことを話しても元気な人には
なかなか伝わらない歯痒さをいつのまにか
「どうせわかってもらえないんだし」と
自分勝手な解釈にすり替えて疎遠になった人も。
親に話したときに言われた
『可哀想な子』という言葉にずっと捉われてました。
誰かに話してみたときに、わかろうとしてアレコレ聞かれたことだと今ならわかるけど…
その頃は憐れまれてるような気がしてイヤでした。
今、観ているドラマのセリフ
それを聞いたとき、私もだ!と。
可哀想な人だと誰も言わないし、
思ってもいないのに、みんな親と同じように
憐むフリして、同情するフリしてるのでは?と勝手な解釈をして避けていたのは自分だったと。
今日のように同じ立場の人はそれはほんとに助かるし、ラクだけど、
知り合った人たちだって、きっと誰一人として
親のようではなかったのかもしれない…
失ってしまったことはもう仕方ないけれど
これからは堂々と今の自分を包み隠さず伝えていこうと思います。
それで離れるならそれまでだし
それでもよければきっとうまくいく。
可哀想と言いながら
『大変な病気を持つムスメを看病している優しい母』の肩書きをゲットできて喜ぶような人はあの人だけだと思うから。
もういちいち母親のフィルターを通した思考にはならないし、なりたくないと思った話。
今日は一日よく喋ったので眠れそうです。
おやすみなさい🍀
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