キリスト教についての授業で書いた文章
おことわり
この文章はタイトルにある通り、キリスト教についての授業の中で書いたものです。しかしちょっと捕捉しておきたいのは、これがなかなかの妄言であるってことです。都合のいいように解釈、表現した部分が多々あります。言い回しも結構うざいです。書いてたら楽しくなっちゃいました。
申し訳ありません。おことわりさせていただきました。申し訳ないと言いながら申し訳てて草。
本文その1
「イエスはあえて何も書かなかった」と聞いて、はじめはなぜそんなことをしたのかわからなかった。考えていることについて、自身がどの場でも矛盾なく適切に説明できているとも、相手がそれをいつも正確に理解できているとも限らないからだ。一つ一つの小さな齟齬が積もり積もって、いつか教えの内容が真逆になってしまうかもしれない。もしも文字を使ったならば、その心配はかなり軽減されるだろうに。
しかし、その理由についてのトマス・アクィナスの考察を聞いて理解できるところがあった。たしかに直接語り掛ければ言語外の情報も伝わるし、相手によって説明の仕方を変えることができる。そして、行動を伴ってこそイエスの教えは真に受け継がれるのだ。
ただその理由の中に、伝承失敗の疑問を説明するものは含まれていない。イエスは、文字を介さず連鎖していく共鳴がどこまで真実であるかはわからないと知っていながら、あえて書かなかったというのか。
となると、イエスはその問題を重要だと思っていなかったのかもしれない。教えは確実に受け継がれると確信していたのかもしれない。それは、自分自身と、目の前の相手とに対する絶対的な信頼によるのなのだろうか。イエスの、二千年来のカリスマたるゆえんを垣間見た気がした。
本文その2
イエスはあえて何も書かなかった。そのひとまずの結果が今日の内容であったと思う。結果とは、いくつかの困難だ。
イエスの死後、その教えはイエスに倣い口伝で語られた。しかし、証人たちの減少と迫害により存続が危ぶまれると、使徒たちはイエスの考えを成文化することになる。それはまさに苦渋の決断だったかもしれない。成文化は、何も書かなかった師イエスにある意味で背くことだからだ。
もしもイエスが書いていれば、口伝という方法が選ばれていなかったら、こうしたことは起こらなかったかもしれない。伝承断絶の危機は、結果的にだが成文化によって脱せられている。そもそも文字による伝承であったなら、証人の減少も迫害も致命傷にはならなかったということだ。そして使徒たちの決断も、必要がなかった。
イエスが招いた困難はこれだけではないと考える。イエスの教えが成文化されるようになったのとほぼ同時期に、使徒たちとは異なった解釈を持つ異端という存在が現れ始めた。その中には、もはや解釈以前の問題で違う主張をするものもあった。異端はそれぞれ派閥をつくり、論争を繰り返し、混乱が起こった。これは、おそらく口伝ゆえのものである。口で語られたことがあっという間にねじれてしまうのは、実体験からも納得できる。もしイエスが書いていれば、異端が現れなかったとまではいかなくとも、それをめぐる混乱がもうすこし小さかったのではないだろうか。
ここまで、イエスが何も書かなかったことで困難が招かれたという旨を書いた。しかしあくまで、これらは必要な犠牲であったと考えている。たしかにイエスが書いていれば、訪れなかった困難もあるかもしれない。しかし、イエスが生の言葉で語りかけたから、熱心で優秀な使徒が育った。優秀な使徒が育ったから、優秀な文書ができた。優秀な文書が作られたから、今もこうしてキリスト教が生きている。やはり、イエスがあえて書かなかったからこそキリスト教は発展したのだと思う。
おわり
はい。ということで、でたらめをお送りしましたが。。こんなに予防線張るなら投稿すんなと自分でもちょっと思ったけど、まあ、ね。
あ、でも知識の啓蒙があればぜひ願いたいと思います。
それじゃ。