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なぜ戦争中の国でボランティアしようと思ったのか

これから、自分のボランティアに関する考えや思うことを書いていきたいと思う。
そこでまずはなぜウクライナに来ることになったのか。


戦地に来たいという気持ちは結構前からあった

中卒の自分は23歳くらいから勉強を始めた。英語、投資、経済、経営、会計、その他ビジネスに活かせそうなことは手当たり次第に勉強しまくった。
それまでは、俗に言う”不良”^^;いろんな大きなきっかけがあって、人生を変えようと思った。
経済や世界のことを勉強する中で、世界の貧困や紛争に焦点が当たることもあって、その時思ったのは『日本のことしか知らなくて、日本の当たり前が自分の当たり前になってて、それってなんか本当にすごく狭い世界だけで生きてるんだな』ってこと。例えるなら、ドラクエの最初の村で一生スライムとだけ戦い、同じ武器を使って同じ村で同じことをしているイメージ。人生っていうゲームを無駄遣いしてるように思えた。
戦地やスラムに興味が出たのはなぜか。正直に言えば、スリルや冒険心を求める気持ちもあったかもしれない。けど、そう言う場所で生きる人たちの人生観がどんなものなのかすごく興味があった。
自分自身、極限に空腹に悩まされる数年間があった。でもその先には、苦しみよりもむしろあるものに対しての有り難みを強く感じるようになり、物質的にはすごく貧しいのに心はすごく充足するようになっていった。
だから、極限状態で生きる人たちは、少なくても自分よりは『当たり前にあるもの』にすごく感謝して、貧しい中でも心はむしろ裕福な人よりも満たされて、毎日を生き生きと生きているかもしれない。自分もその感覚を知りたい。そんな気持ちがあった。極限状態に対しての好奇心やワクワク感は、言語化したらこういうことなのかもしれない(当時はもっとざっくりと曖昧に、興味があったが)

ジョージア(グルジア)に移住

沢山の失敗を経験しながら、仕事がうまくいき、自分の一番の得意分野である投資(ファンダメンタル重視の中長期、株)でもう安定運用して一生生きていけるくらいはお金が手元に残せたので、やっていた仕事をすっぱりと辞めた。その後ジョージアに移住し、投資だけして悠々自適に生活。戦争が起こるかもしれないという時に、投資にもかなり影響があるのでニュースには注目していた。実は、友人と『戦争は実際に始まるか』という議論をしていて、「戦争は始まる」と結論づけていた。その1〜2週間後、戦争が始まって、その日にウクライナに向かうことを決意してポーランド行きの航空券を取った。

なんで?

この質問はウクライナきてから何百回と聞かれたけど、自分でも上手く説明できない。
戦地にいきたい気持ちはあった。
あと、金に執着してる利己的でずるい人間たちに対する嫌悪があり、自分はそうなりたくないと思っていた。だからお金に執着することが、その人たちのようになる道の始まりな気がして、お金を得たからといってそれを守るための人生にしたくない→一度お金を得たらそれを全て一瞬で使ってまた起業しよう、ということもよく言っていた。けど実際は簡単に稼げる額ではなかったし、散々苦労して稼いだ金。なかなか有言実行できなかった。
そんな時戦争が起きた。
また、実を言うとその直前に彼女と別れたことも大きかった。もし彼女がいたら、流石彼女を置いて戦地にはいけない。喪失感を埋めるために、目の前のことにがむしゃらになろうとするのは沢山の人が経験したことあることじゃないだろうか?

これが、ウクライナに行こうと決断した時。頑張って言葉にしてみたけど、でも結局のところ自分でもよくわからない。ただ一つ言えること、みんなに『怖くなかったのか』に対して。そりゃ怖かった。かなり。

ウクライナ行きを準備

ウクライナに行ったこともない、ウクライナに知り合いもいない。そんな自分が行って、何ができる?何にもできないだろうし、邪魔になるだけだよ。
元カノや親友にはそう言われた。心配して引き留めようとしてる気持ちが伝わってきて、逆に暖かった。
でも、個人である程度のお金を使えて、稟議などもなしで即決で使えて、現場に飛んでいける人はあまりいないと思ったから、大きな団体の手の回らないところで自分にも助けられる人がいるはずだと強く思っていた。行って、一人も助けられないわけがない。一人でも助けられればいい。金額的には、数百人や数千人の力にはなれるかもしれない。
そうして、戦争の起こったその日から知り合いを通してウクライナの情報収集をすることにした。その時点でウクライナにいる何人かとすぐに連絡を取り合うようになり、自分はその人たちから困ってることを聞いたり、現地では混乱していて情報も錯綜してたから、自分がいろんなメディアからの情報をまとめたり、避難できるルートや時間を遠隔で伝えたりしていた。「どうしたらいいのかわからない」と言う人がほとんどで、家を出るべきなのか、今出て平気なのか、その後どうすればいいのか、判断がみんなできな状態。電車は混みすぎてなかなか乗れない状態。
この時に、『この時間に。このルートならまだ平気。ロシア軍はここらへんにいるから、あなたの家の場所からこの駅まではいける。電車もあるから、それに乗ってここまでいけばこういうサポートがある。』そう言うようなことを言って、避難のための情報を遠隔でサポートしていた。

自分の部屋にも空襲警報

ウクライナの様子をリアルタイムで見れる動画サイトや、ユーチューブチャンネルがあったので、ジョージアの家でそれを何個も常につけて監視していた。PCやiPadから空襲警報が鳴るたびに、ドキッとして自分も起きた。
連絡取り合ってる人たちと連絡が途絶えるたびに鼓動が速くなった。
1日でも早くウクライナに行きたかった。ジョージアからの最短の直行便をとったけどポーランドに着くのは3月1日だったかと思う。だから戦争が始まってからの1週間は、部屋にこもって上記のようなことをしていた。次第に自分も戦地にいるかのような緊迫感があって、タバコも買って吸うようになってしまった。みんながシェルターで凍えて不安と恐怖に覆われている時に、ぐっすり寝る気にも、美味しいものを食べる気にもなれなかった。
ジョージアの友達たちは、どこかきまづいような、心配だけどなんて言ったらいいのかわかんないような、本当に複雑な空気があった気がする。でもみんな理解してくれるだろうって思ってた。それに、自分は死にに行くわけではないし。でも死ぬ可能性ももちろん覚悟していた。当時の肌感覚で言うと、50%くらい。ロシア軍がKyivに迫って、ボランティアや逃げる市民も撃ち殺されたというニュースが山ほど飛んでくる。

自分は、善なのか?

正直、わからない。売名や有名になりたいって気持ちはなかった。けど、人を助けたいって気持ち以外にも、人助けや勇気を持って恐怖に抗えるという自分の自己実現をしたいって気持ちも強くあったのは確かだと思う。
ただ、ウクライナの人たちと連絡をとり始めてからは、どんどん感情移入して、会ったこともない人たちを本当に助けたいと思った。
自分の今までの経験から、避難できないでいる人たちに必ず役に立てると言う気持ちがあった。
また、日本政府が渡航をするなと言う中、ものすごく世間からバッシングされるんだろうなとは思っていた。

いろんな複雑な感情の中で、友人たちに別れを言って一人でポーランドに飛んだ。友人たちの雰囲気は、やっぱり永遠の別れになるかもしれない空気が漂っていて少しきまづかったけど、なんだか本当に心からその友人たちを誇らしく思った。
ポーランドの入国審査で、最終的な行き先を聞かれ、ウクライナと言うと黙って頷き、親指を立てて、『thank you』と言われた。なんか死にに行く前提で、『これから死ぬかもしれない人』って見られてる感がすごくした。勘違いかな?まぁあながち間違ってもないけど。

そうしてウクライナでのボランティアは始まりました。

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