Well being ① ~自分と向き合う部屋への鍵/コロナ禍は辛い~
こんにちは。もうすぐ8月が終わります。相変わらず京都は暑くて、日中は家を出ようと思えません。突然の雷雨にもうんざり…。皆さんはいかがお過ごしですか?
今回は、そんな日々の中で私自身が感じたことをシェアしたいなぁ…と思って文字にしています。つれづれなるままに。
ここ数ヶ月の間、Wellbeing北海道大学コンパスプロジェクト2022に参加しました。全5回にわたって、私のウェルビーイングや私たちのウェルビーイング、社会について考えたり、聴いたり、話したり…。
「場づくりやファシリテーション(ファシリテーター)について、色々なコトを知りたい」「自分自身を見つめたい」。この2つが私が参加しようと思った理由でした。実際に参加してみると、幅広い年代の方々が参加されていてびっくりしたのを覚えています。(大学生ばっかりだと思ってた…。)
自分と向きあう部屋への鍵
ウェルビーイングについて、深く考えたことはありませんでした。何となく、「社会全体が幸せだ」とか、「みんなが良い感じだ」とか、そんなイメージ。【私にとってウェルビーイングとは?】という問いに出会うまでは、客観的な視点からウェルビーイングを考えていたような気がします。
〈わたし〉のことより、〈みんな〉のことを考えているような…。それは、特別悪いことではないと思います。でも、ウェルビーイングという言葉を通して、〈みんな〉の中に〈わたし〉も含まれていること、〈わたし〉を大切にするということに気付くことができました。この感覚、どこで落としてしまったのかなぁ…。まぁ、拾えたので良しとしましょう(笑)。
(すこし脱線)「日本の学校教育に作り上げられた模範のような人間だね」と言われたことを、この文章を書いていて思い出しました。言われた日から2年半、この言葉にモヤモヤしていることも。(脱線おわり)
そと(他者)への振る舞いを考える癖がある私にとって、ウェルビーイングという言葉は、私自身と向き合う部屋への鍵になったような気がします。
(急にプロジェクトの感想ですが、)ウェルビーイングについて、それぞれが考えて、それぞれのことを話すとき、「聴いてくれている」という雰囲気がとても嬉しかったなぁ…。ウェルビーイングを考えることには、それぞれが大切だと思わせる力があるのかもしれません。もちろん、そのような場をつくりあげてくださった方々のおかげでもあると思います。ありがとうございました。
なんだかんだ、コロナ禍は辛い
私にとってのウェルビーイングを考えた時、私はコロナ禍を生きているということ、そんなコロナ禍がそこそこ辛いということに気付きました。いまさら何を言っているの、という声も聞こえてきそうですが・・・。
私のウェルビーイングにとって大切なことの1つに「シェア」を挙げることができます。言葉や感情、時間、情報、知識をシェアすることが、私にとって何よりも楽しい。私自身の人生を豊かにしてくれます。
私はいま、大学最後の夏休みを過ごしていますが、大きなイベントのために、2週間自宅待機をしています。正確には “感染リスクの高い行動を避けるように” という感じなのでずっと家にいないといけないわけではないのですが。何も予定のない、誰とも会わないし、誰とも話さない日々はびっくりするくらい辛いのです。
思えば、この2年間はそんな制限と共に過ごしていました。世の中は、コロナ前の生活に戻っているわけではありません。正直、どんな生活をしていたのか覚えていませんし、じゃあ戻せと言われても戻せない自信があります。
そんな制限の中、オンライン授業や今回のような様々なプロジェクトなどを通して、色々な人と出会うことができました。それはとても幸せなことですが、それはそうと、20年間続けてきた生活様式が一変することはなんだかんだ辛いのです。辛いからこそ、このような出会いを求めていたのかもしれません。ウェルビーイングについて考えた時、改めてコロナ禍の辛さを感じました。
まだまだ文章は続くかもしれません。その時はまたお知らせします。
いったん、ここまで。