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『三重奏』2/16:COMITIA151
彼に伝わる音は、振動なのか、匂いなのか、もしくは水中の泡と同じか――
演奏家(ファゴット奏者)の篠宮徹はプロ活動をしながら楽ではない生活を送る四十路の独身者。楽器部品の材料調達で銀座の手芸店、東京クラフトセンターを利用している。そこで店番をしているエプロン姿の店員、戸谷幸里(ユキ)は耳の聞こえない青年だった。ある日ふたりは近くのコーヒーショップで偶然出会い、それから連絡を取り合う仲に。半年あまりの交流が続いた頃、突然の東京クラフトセンターの閉店を知った篠宮は……。
冒頭作「掻き出したいこころ」の他、ユキの自認する内面を描いた短編「微弱動」、ユキの同僚イトちゃんとの対話で投影する〝ないものねだりたち〟の話「三重奏」を収載したBL小説です。
※本文未掲載の部分にR-18描写があります
※主な登場人物に女性がいますが、男女の三角関係を描くものではありません
「掻き出したいこころ」
銀座の亀井橋を渡ってすぐのコインパーキングは、いつもとさほど変わらず適度に空車があった。左右に七台ずつ設けられた駐車スペースのいちばん奥にある空きを見つけてバックで停める。端が好きなのではなく、駐車中に出入りする車にこすられたりぶつけられたりするリスクを片側でも減らせるならそうするというだけだ。さらに選択肢があるのであれば、業務で使っているような積荷の多い車ではなく、SUVなどの個人車の隣であればなおいい。仕事で運転する連中は基本的に時間に追われているし、業務中に社用車に何かあっても保険と始末書でなんとかなると思っている。それは俺が遠い昔に少しの間だけ同業だったから彼らの気持ちも分かるというだけで、実際世の中にはもっと誠実で安全運転の、腕も確かな職業ドライバーがたくさんいるんだろうけれど。
エンジンを切った車から先に降りると、後部座席のスライドドアを引きながら助手席の方へ話しかけた。
「二ブロックくらい歩くぞ」
リュックタイプのソフトカバーがかかった黒いケースを引き出して肩にかける。アタッシュケースの形になぞって〝ジェントルマンタイプ〟と呼ばれるそれも、本体にハードケースの容量を合わせると十キロを超えた。前に一度、地方の空港で「何が入っているんですか」と声をかけられたことがあるが、中身を見せればたいていはほうと声を上げて感心されてるだけなので苛立ったり気後れしたりするようなこともない。
助手席から素早く降車した広内は、足元から同じような黒いケースを持ち上げて背負った。彼の方が型式が二千番ほど新しいが、カットがジェントルマンタイプではないので、ケースも縦長で筒形に近い。
キーのセンサーで車が勝手に施錠されるまでの間に、広内が「はい、喜んで」と応えた。
「おまえ面白いね。もっと適当にふまじめでいいよ」
「だめです。篠宮さん、先生ですから」
そんなこと言って、誰も先生なんて呼ばないだろ、という嫌味は口にしない。弟子というより親子くらいの年齢差のある彼はあっという間に俺や先輩諸侯を抜き去り、今となっては国内最高峰のプレイヤーのうちのひとりだ。じきにポストが空く名門オーケストラの、次の首席奏者は間違いなく彼だと噂されるほどになっている。
コインパーキングがある通り沿いにまっすぐ進むと、ホワイトニング歯科が一階のテナントに入った細長いビルが角に見えた。昔からある縦型の電飾看板は今の時間灯りが落ちていて、表面は日雨に晒され、内側から蛍光灯で焼かれて色褪せた店舗名がうっすら見えるだけになっている。そこの四階にある「東京クラフトセンター」という文字を軽く指さし、広内に先へ進むように促した。
収容定員が六人とは思えない狭苦しいエレベーターに黒いケースを抱えて男ふたりが乗り込む。庫内は空調が入っているようだが弱々しい送風しかなく、車から降りて少ししか動いていなくとも背中にじんわりと汗をかいた。
エレベーターを降りた先にえんじ色の古い鉄扉があり、その脇に店名が書かれた手織りのタペストリーが掛けられている。
「普通に事務所みたいですね」
「そう、本当に事務所みたい。中も店っていうよりは問屋かな」
重たい扉を開けて店内へ入ると左手前にすぐカウンターが現れ、普段の商店よりやや高い場所にレジスターが置いてあった。もともとは受付用のカウンターだったのだろう、板面は大きく丸みを帯びている。そこに立つのはいつも同じ女性店員で、白髪頭に眼鏡をかけ、オレンジのエプロンを身に着けていた。俺が密かにニンジンと呼んでいる彼女には、はじめに糸を買いに来た時に店内の棚を一緒に歩いて見て回ったりして、かなり親切にしてもらった記憶がある。
初めてこの東京クラフトセンターに来店したのは、もう十年以上も前になる。
愛用していた麻糸の在庫が、ある時突然東急ハンズの店頭から消えた。よく行く店舗では額装売り場の周りにある金具や接着剤などと一緒に陳列されていたから、試しに手芸や園芸のエリアにも行ってみたがどこにも見当たらなかった。サービスカウンターで商品について思い出しながら在庫検索をしてもらったものの、その時に品番はおろか商品名も控えておらず、結局その麻糸は行方知れずになる。
帰りの電車の中でもいろいろと検索ワードを打ち込んで調べてみたが、すみずみまで画面をスクロールしても同じようなビジュアルの商品は見つからない。同業の演奏家たちは柔らかい絹や綿を好んで用いるやつばかりだったから人に尋ねたところでそこには行きつかないだろう。諦めきれず数日おきに何度か検索したが、やはりめぼしいものは出なかった。そうこうしているうちに、最後に買った麻糸はどんどん痩せて芯の紙管が見えるほどになっている。
ある日、まったく別のスポーツ記事をブラウザで読んでいる時に、段落の間に現れた邪魔くさいバナー広告に、俺は初めて感謝した。まったく見覚えのない手芸屋の宣伝だったが、店名の脇に貼りつけられた糸の写真が、探し続けているラミーリネンのまさにそれだったからだ。店のウェブサイトをすぐに開いてページをスクロールする。メニューから通販の文字を探してたどり着くまで気が急いて何度も襟足を掻いた。
通販ページは楽天やアマゾンなどが連携しているわけではない、自社サイトで運営しているもので、三千八百円のラミーリネンを一本買うのに千二百三十円の送料がかかると書かれていた。宅配は便利だが職業柄、不在日が続くと再配達が億劫だ。当時住んでいるマンションには置き配用のロッカーがついていなかった。
時間さえあれば宅配送料より店舗までの電車代の方が安上がりなのも決め手だった。翌日の帰り道、サイトのフッターに記された所在地を訪ねてみることにした。
東京クラフトセンターの店内は三区画に分かれている。入ってすぐのレジから壁のどんつきまでがずっと糸で埋め尽くされた棚がまっすぐに並んでいた。カラフルなウール糸、アクリル、綿糸、レース糸など……手芸に縁のない俺でも知っているダルマの縫製糸、ミシン糸などが様々な色のバリエーションで陳列されている。それも、どれも驚くほど大量に。法人向けの大口受注を想定した品揃えだ。
少し奥まったところには書籍のコーナーがあった。背が焼けて文字が消えてしまっている実用書もあるから、もちろん主力の商品ではない。付き合いのある問屋に在庫を入れろと言われて買わされたか。考えるだけ無駄な推測だけが記憶に残る。
最後の区画は窓際で、大きな機織り機が数台展示されていた。高さが調整できる作業用の長机が数本並んでいて、そばにはワークショップの日程が書かれたチラシとその製作例のようなものが掲示されている。アフガン編みのポーチ、尾州糸で作る手織りマフラー、など、文字だけではどんなものが出来上がるのか分からないものばかりだ。
そうして全ての区画をひと通り見て回ったが、バナー広告のビジュアルに使うほどの一押し商品を、俺は棚の中から探し出すことができなかった。
仕方なくレジへ引き返し、助けを求めたのがニンジン婦人というわけだ。自分が製作する部品の材料に使っている麻糸を探していること、だいたい同じ太さや紡ぎ方のものがないか確認したいこと、今日は完成部品は持っているが麻糸の持ち込みを忘れてしまったことを彼女に伝える。
「拝見しますね」
彼女は分厚い眼鏡を鼻の下にずらしながら、既に赤い塗料に覆われ、その上にセメダインで塗り固められた麻糸を慎重に見た。
「だいたいの番手は分かりますけど」
「番手」
「糸の太さです。でも、紡績の硬さというか、締めの緩急が、メーカーによって違います。全く同じものが見つかるかは……」
こちらです、と案内されたのは、うらぶれた書籍コーナーのすぐそばにある棚だった。なぜここに、と思いながら言われるがままについて歩き、そのあたりの陳列を見回す。好奇心というよりも通った道路を周囲の景色とあわせて記憶しておく感覚だ。在庫がなくなればまた来店して自分がこの売り場へ赴くかもしれない。
ラミーリネンはその棚の膝下あたりの高さに並んでいた。
「色は、赤ですか」
「いえ、赤はあとで塗ります。漂白でもなく、できればナチュラルで」
麻糸は地の色で、赤の塗料はプラモデルなどに使用するエナメルインクを使うのがいちばん具合が良い。何が音の良し悪しに効果を発揮しているのか科学的根拠は一切推測できなかったが、音大時代から長年さまざまな糸と塗料を試して行き着いたのがこの工程だった。
エプロンの店員に渡して見せたのは楽器の部品であるリードだ。確かこの日も、ジェントルマンケースの中に何が入っているのかと尋ねられ、近くの作業台を借りて婦人に披露した記憶がある。
ケースに収められた本体はファゴットという木管楽器だった。俺はただの端くれだが一応、プロの演奏家としてなんとか今日まで生き延びている。
婦人に案内された売り場で、俺はバラ売りのラミーリネンに触れる許可を得た。おそらくこれがほぼ同じ番手だという糸を渡され、普段作業をしているのと同じように右の手の甲に何周か巻きつけていく。リードを作る工程で、材料である葦をプッペという形状にし、金属ワイヤーで締めた後にその下部を麻糸で巻く。下の方を樽のような形にして縄目を出すのが美しいというのが製作上の作法だが、それすらも音色に影響するかについての根拠はまったくない。二枚重ねのリードを麻糸でくくった時、切り込みにそってそれが歌口の管にぴたりとはまるようにほぼ真円の筒になってほしいので、俺はいつも力の限りきつく締めている。リードをドライバー付きの軸に固定して回転させながら締める作業で、麻糸を持つ右手は鞭打つように繰り返し激しく引き縛るのだ。
その動作を模して何度かぐいぐいとラミーリネンの糸を引くと、日頃使っているのとはやや違う感触だった。俺の反応を窺うこともせず、ニンジン婦人は次はこれ、別のメーカーはこれ、と続けて四種バラ売り商品を持ってくる。
結局五種ぜんぶ手に巻きつけて締め具合を試して、たぶんこれがもっとも近いだろうと思しき商品をひとつ買った。帰宅して使いかけのものを確認すると、麻糸そのものはまったく同じといっていいくらいそっくりだったし、紙管に印字された数字の規則も同種のような印象だった。実際、翌月のリード製作で試しに入手したラミーリネンを使用したが、糸巻きの作業や演奏中に違和感はなかった。
それ以来、頻度は年に数回あるかないか程度だったが、俺はこの手芸店に通い続けている。今日は、自分でリードを作っているがどうもしっくり決まらないと悩んでいた後輩の広内に店の紹介を兼ねて来た。
記憶している麻糸のコーナーまで店内をまっすぐ歩いていく。みっつめの柱を左に曲がり、ペンキが剥げかかった白い本棚が見えた通路の逆側を右、少し進んだところにあるボール紙の表示のすぐ下。
「これね、俺が買ってるの」
ビニールに包まれたままのナチュラル色を一本取り上げて広内に手渡した。彼は樽状に巻かれて着色を施した完成リードの姿は何度か目にしているが、素材で見るとまったく印象は異なるらしい、「けっこう太いですね」と目を見開いている。
「そうかも。締めるとき、すごい負荷かけるから」
「へえ、それでケーンが割れたりしないんですか?」
「しないね。こう、縦にたくさん切り込み入れてて、締めると起き上がるようになってる」
自分がワイヤーを組む時の作業行程を説明しながら、だからこれではない、こちらをえらぶ、というように特徴と根拠を示していった。もともと赤く染まっている糸で組み立てるひともいますよね、と広内が興味を持って手を伸ばした時には「もちろん」と頷き、数歩先の彩色されたラミーリネンの棚の前に移動した。
「中には緑とか、紫なんてひともいる」
「すごい、でもそこまでの冒険はちょっと怖いかな。僕は篠宮さんの真似から始めて、まず吹き心地とか鳴り方とか試していきたいです」
それでも糸巻きの工程で手を怪我したら元も子もないので、普段使っている型よりひとつかふたつ番手の小さいものを勧めた。せっかくなので自分の在庫の補充と、新発売と書かれた混綿の糸を買うことにする。柔らかい素材の糸は、コントラファゴットというファゴットよりさらにふたまわりほど大きな低音楽器のために使うリードの方が相性が良いように思えた。滅多に人前で口にすることはないが、俺は業界の中でわりあいコントラを吹くのが上手なやつだとみなされている。昨秋にあった臨時収入のおかげで、運良く新しいコントラファゴットを手に入れたばかりだった。未だ安定して仕事に呼ばれている今のうちに、もう少しだけそれなりの評価を得ておきたい。
ふたりで選んだ品を持って入口そばのレジへ戻ると、ニンジン婦人は電話の最中だった。螺旋のコードを指に巻きつけながら話し込んでいる姿が四半世紀以上前にタイムワープしたように思える。自分が持ってきていた糸を長机に置き、広内をその場へ待たせて再び商品棚の間を左右に覗き込みながら歩いた。
店にはニンジンとは別の、緑のエプロンをした店員がいる。いつも在庫出しと陳列、織機の具合などを確認していて、時折空きスペースで編み物をする姿を見かけたことがあったから、ワークショップの見本品はおそらく緑の方が作っているのだろう。直毛の髪を肩よりやや下まで伸ばしていて、顔も手も真っ白の肌で、いつも口を少しすぼめていた。話しかけても返事をしない、鉄扉の開く音にも反応しない不愛想なやつだから、俺はそいつの方をピーマンと密かに呼んでいる。
今日のピーマンはレース糸のところにいた。自分のエプロンを有袋類のポケットがわりにたくさんの在庫を抱え、ひとつずつ片手で商品の並び替えをしている。率直に言えば、あまりに緩慢で非効率な動作だ。俺だったら絶対スーパーの買い物かごのようなものを使って運ぶし、両手は必ず自由に動かして時間を最短で終わらせられるようにする。
きっと生きるのに急いでいないのだろうと思う。世情に疎く知らないことがあっても、遠回りをしてもかまわないという振る舞いだ。そう考えれば、ピーマンがここで静かに働く理由も納得できる気がする。
俺はこれで何度目かの店員との交流で得た経験から、ポケットから出した片手をひらひらと振って相手の視覚へ訴えかける。オリンパスの赤糸を持つ手が止まった。ビニールに包まれている玉の大きさからか、それが色艶の良いりんごに見える。高価な糸は仄かに光沢があって紡績もすっきりとしており、素材としてはすごく魅力的だ。ただオリンパスは俺の糸巻用に使うには柔らかすぎた。試す余地がないことが分かっていても、白い手に取られたりんごの実は今でも俺をそれとなく誘ってくる。
ピーマン店員の視線がのんびりとこちらへ向いた。すぼめられた口は緩むことなく、「お」と小さく声を漏らす。
「すいません、会計やってほしい」
肩の後ろを指さす仕草をしてから、エプロンの袋に包まれた毛糸を両手でつかめるだけ持ち上げ、適当に手前の棚に押し込んだ。傍目には、相手の反応を見ずに勝手に仕事を取り上げて連行しようとする客はある種恐怖だろう。しかしピーマンは俺をぼんやり見守り、やがて自分の手から毛糸を奪われても、すっきりした双眸を丸くして「と、ととと」とおかしな言葉を漏らすだけだ。
何度か観察した限りの俺の推測では、ピーマンは聴覚障がい者だった。聞こえているのかいないのかも定かではない。聞こえていたとしても、人の声や物音の形が分からないのだろう。こちらが身振りでやっていることもどこまで理解しているのか。まあ、この短時間の付き合いの限りでは、それもどうでもいいことなのだが。
作業を中断してレジスターに戻っても、ニンジン店員の長電話は続いていた。待っていた広内にピーマンが軽く会釈してから、バーコードの付いていないそれぞれの商品を手早くレジに打ち込み、合計金額をマドに表示させる。額面七六五八円を見て一万円札を取り出し、これで、と呟く。ああ聞こえていないのか、と思ったが、当たり前に会計トレーに置いた紙幣からすぐさま釣り銭が計算され、二三四二円が戻ってきた。商品を少し大きめの紙袋にゆったりと入れられる。これならB4版の楽譜が入るな、と考えてしまうのは職業病だろう。
つけていたマスクを外し、口を大きく動かして「ありがとう」と言うと、肩の下までまっすぐ伸びた髪がさらっと背中の方に流れ、顔を上げたピーマンの目が大きく見開かれた。
「とと、と」
それから深々とお辞儀をする青年は、もとの姿勢よりさらに猫背でなで肩になった。電話のコードを弄りながら通話を続けていたニンジン婦人も会釈する。広内が横から自分のものは折半で、と言うのを固辞しながら、ふたりでもだもだと店を出た。
エレベーターのボタンを押して待つ間、自重でのろのろと閉まりかける鉄扉の隙間に店内が細くくり抜かれている。相変わらず無愛想で要領の悪そうなピーマン色のエプロンをした店員が、俺たちのことをまだじっと見ていた。
*
仕事帰りに広内を東京クラフトセンターへ連れて行ってからおよそ半年、再び銀座三丁目を訪れている。年末まではオーケストラやバレエ団の伴奏などで順調に仕事が入っていたが、年明けから下方の流れがやってきて、二月を過ぎてからは特に、スケジュールがほとんど埋まらない。暇だと収入も絶えるから蓄えから切り崩して耐え忍ぶしかないのだが、せめて家賃代くらいは稼ぎを作らなければと思い、家の中で黙々とリード製作に励んでいた。
ダブルリード楽器の完成リードは、ほとんどが個人による手工業だ。製作者の多くがプロの演奏家で、納品物は楽器専門店に集約されている。それぞれ個性や特徴があるから、販売する時にブランドのような名称がつけられるのが習わしだった。同業では自分の名前が分かるようにつける者ばかりだったが、俺はただオルニスとだけ名札をつけて素性を隠している。これは篠宮の作ったリードだと噂されたり、あるいは直接声をかけられ、楽器店への次の納期はいつだと言われた日には、気が狂いそうになるのが目に見えていて嫌だったからだ。専業でプロ活動している業界の人間は驚くほど少なく、狭く閉塞した世界ゆえの生きづらさなのだが、食っていくために俺ができることとしての選択肢は他にほとんどない。
素性を隠して出荷するリードの材料は、当然作った分量だけ順調に無くなっていく。広内と来た時に一年もつと甘く見積もっていたラミーリネンも最後のひと巻が僅かに残っているだけだ。
散歩ついでと言い聞かせて重い腰を上げ電車で買い出しに来た俺は、店の鉄扉に印字された文字を読み、調べもせず開店時間の一時間前にここへ来てしまったことを知った。月締めの納期近くであれば、ついでに渋谷の楽器店で完成品の納入をしたり、あるいは店舗にある売れ残りを軽く調整したりなどして時間を潰すこともできただろうが、あいにく今日はそんな用事もない。
通り沿いにどこにでもあるチェーンのコーヒーショップがあったことを思い出し、そこで開店まで待つことにした。電車の中で読んでいた本のページがまだたくさんある。もともと活字が苦手で、自分の興味があるジャンルの、世界的に有名な指揮者が解釈する近世音楽観などが題材でも、読了までに一年以上かかるのがざらだった。今日もきっと待ち時間の半分も経たないうちに飽きてしまい、結局は店内の人間観察などをして開店時刻を待つのだろう。
アメリカンコーヒーの入ったマグカップを片手に店内の食事スペースへ進む。窓際のソファ席や二人掛けのテーブル席はすべて埋まっていた。客はみな俺と同じようにひとりで、パソコンを開き作業に追われるもの、スマホを熱心に覗いているもの、腕組みして目を閉じているもの、サンドイッチを一生懸命咀嚼しているものと様々だ。少し見回すと、中央に大きな造花を飾った相席用の丸テーブルにふたつ並んで空席がある。下ろしたボディバッグは椅子の背もたれにかけて、開いたままのジッパーから単行本を引き出すと、マグカップの隣に置いてから席についた。
他人と肩を並べて空間を共有し時間を過ごすことに少しでも居心地の良さを感じられれば、俺も無線ネットワークを探しカフェ草原を旅する遊牧民ワーカーの仲間入りができるだろう。演奏家も案件で行く現場がその日その日で違ったりするし、俺のようにフリーランスでいればエキストラの仕事ばかりだから会う面々すら定まらない。キャリアが長くても一度も演奏したことのない交響曲だってある。お互い現役でほどほどに売れているのに現場で十年被らない同業もいた。しかしそれに居やすさを感じるわけでもなく、今も周りが他人だらけの空間で、締切のあるタスクもなければ時間拘束のある仕事も持たないこの時の経過は俺にとってなかなかに苦痛だった。金と時間はもったいなかったが今日はもう帰ろうか。徐々に減っていくカップの中を見下ろしながら逡巡する。薄く油が浮いて白くつやつやした光を写すコーヒーの表層に、さっと一瞬影がよぎった。
隣の席に誰か来たようだった。顔をあげる。自分の左側で椅子が引かれる音がして、つられてそちらへ視線をたどれば、背もたれに乗った手が塗ったみたいに真っ白なのが見えたから、きっと俺はそのひとのことを既に想像していたのかもしれない。
肩の下までまっすぐ伸びた黒髪の、隙間にある顔面を目撃すると、俺は周囲に憚ることを忘れて「ピーマン」と呟いた。きっと聞こえていないだろうに、向こうもすぐに気づいて、ぺこりと大きな動きで会釈される。ピーマンはリュックをテーブルの下にある収納へ滑り込ませ、そのまま器用に手をつっこんでジッパーを開けると、中から小さな黒板みたいなものを取り出した。昔のスマホみたいにベゼルが下だけ分厚くて、真ん中にゴミ箱のマークが描かれていたので、それが電子メモパットだとすぐに気づいた。とはいえ、そんな事務用品みたいなもの、普段生活する場面ではほとんど目にしない。
白い手は慣れた手つきでパッドから付属ペンを取り外すと、板面にさらさらと字を書いた。
《おはようございます》
やや縦長だが綺麗な字だ。トメ、ハネ、ハライがはっきり見える筆致が、きっとそうではないはずなのだが、これしか他に伝えるすべがないというどこか必死な様相を感じてしまい、かえって痛々しくなる。小さくうなづいた俺の反応を確認してから、手芸店の不愛想な店員はさらさらと美しい文字を綴った。
《ピーマンって、なんですか》
思わず、聞こえたのか、と言いそうになって慌てて口をつぐんだ。感染症が落ち着いてしばらくしても俺はマスクをつけることを常としていたが、今はコーヒーを飲むために外している。唇の動きで察せられたのだと分かると、諦めて今度は少し大げさに顔を動かして喋った。
「店のエプロンの色」
何度も顔を出している店の店員に失礼かつ稚拙なあだ名をつけていることを吐露した客に、ピーマンはふふっと小さく笑う。笑う顔も口がすぼまったままだが、眉間と鼻に皺が寄ると愛嬌があると思った。
白い手がパッドのイレースボタンを押す。真っ黒になった薄い板面に、また形の良い文字が素早く書き込まれていく。
《戸谷幸里 トタニユキサト》
「めずらしい名前」
《よく言われます》
俺がペン先を見ている間も、相手はずっとこちらに視線を注いでいる。朝のコーヒーショップで顔見知りとはいえほぼ他人にフルネームを告げるなんて不用心なやつ。しかし、相手もお客様情報で本名に現住所、携帯の番号まで知っているわけか。日本社会はそれを悪用しない性善説でほぼ全てが成立している。おそらく戸谷幸里も俺がSNSで銀座三丁目に聾唖者が居て云々などと無闇に発信しないと思っているし、実際、そういう類の情報は既に世間の関心を超える情報過多の中、ほとんどが埋没して好奇心と繋がる可能性は低い。
「それより、あなたのこと女のひとだと勘違いしてました。ごめんなさい。それともあってる? 最近、名前で性別わかんない、無礼なやつで申し訳ない」
意識してゆっくり喋っているつもりだったが、静かな店内で自分の声だけが響いているような気がするととたんに歯切れが悪くなった。相手に伝わっていないのが分かり、メモパットのペンを貸してほしいと書くまねをして伝える。借りたペンは軽くて細いおもちゃのようだったが、薄いパッドの上にペン先を置くと思いのほか書き心地が良かった。
《女性だと思っていました すみません》
彼は書き終わる前に何度も手をひらひらと振った。いやいや、とんでもない、と否定や謙遜を表す仕草。ペンの代わりに人差し指の爪を立て、謝罪の言葉の脇に小さな文字を書き足した。
《大丈夫 ぼくも途中までそう思ってました》
途中、という言葉が、柔らかく喉元にひっかかる。気づきが得られたのは子どもの頃の話だろうか。たった一言の返事から、夢想は勢いよく広がっていく。
ピーマン改め戸谷青年は、これはまったく根拠のないただの邪推だが、彼以外の家族がみな健常者だったのかもしれない。俺の思う、彼と同じような人間はみな表情が豊かで、舌足らずに聞こえはするものの、日常で口話を使っていた。手話とあわせればそうではないのかもしれないが、見ている限り、口話がとうてい聞き取れないくらい拙く、表情に乏しいのは、幼年から周囲の人間から自分の意図を汲み取られることに不自由しなかったからではないだろうか。
上の兄弟もいて世話をされていたから、耳に障害があることに気づくのが遅くなったということもありうる。俺も子どもの頃にやる視力検査が嫌でしかたがなくていつも嘘をついたり答えなかったりして、親には深刻な近視と乱視だと思われていた。大人になっても裸眼で視力が1.5以上あるので本当にいい加減な性格だったのだろう。
そんなふうに、きっと彼も人並みに聞こえてはいるが反応が乏しく、検査も本人が無関心だから結果はあてにならない、という調子で判断されていたと仮定する。戸谷は大人になった今でも終日手芸店で働くのが苦にならない静かで穏やかな性格だ。子どもの頃から部屋の隅でマイペースに折り紙をやったりなどして、走り回ったりふざけ合うことはない。当然、少年たちが好んで用いるちんちん、うんこ、おならなどの刺激的な語彙にもふれなかったのではないか。幼い彼が、自分は分類されるならこちらの方、と自身を女子に振り分けるのは、別に変な話だとは思わなかった。かなり乱暴な妄想だったが、だいたいはそんなところだろうか。
今は、と好奇心のままに尋ねそうになったのを振り払うようにして、ペンを彼に返した。こういう根拠のない推論遊びは昔からの癖みたいなもので、なかには多分な思い込みが含まれている。一見、踏み込んだ内容に思えた彼の言葉にさほど深い意味もないのかもしれなかった。口をつけたアメリカンコーヒーはまだぜんぜん冷めていなくて、飲み込む時に軽くむせそうになる。
《これからお仕事ですか》
マグカップを置きながら、メモパッドに作られた質問を読んで首を振った。待ち合わせ? 次の言葉にも否定の仕草をする。この若者は何が目的で俺に関心のあるそぶりを見せるのだろうか。この年頃特有の敏感な好奇心か、それかこちらよりもさらに上をゆく暇と退屈に、何をして良いか分からなくなったがゆえの不可解な行動なのか。彼の真似をして黒いキャンバスに爪を立て字を書いてみようとしたが、てんでうまくいかなかった。親切な手からペンを再び受け取る。書き出しにやや迷ってぐるりと上を向いてから、今までに一度も上手いと思ったことのない形の歪んだ文字を板面のすみに加えた。
《じかんまちがえて待キ中。あとで店いきます》
読んですぐ慌てて立とうとする青年を引き止める。書いた手前おこがましいかもしれないが、待っている客が目の前にいるからといって、所定の時間を超えて労働するのが良いことだとはまったく思っていなかった。もしかしたら戸谷も今の時間で何か作業をしたり、息抜きのため、あるいは今日は出勤の用はなくたまたまここへ来ただけだったのかもしれない。彼の都合を考えず、話しかけられるまま色々と答えてしまった。という、ここまでのことを、俺は文字にする前に出力するのを諦めてしまう。着席するように身振りで伝え、テーブルの上に置いたままの本を指さした。相手はそれで納得したようだった。
栞を挟んだページを開いて、緩やかに弓なりに反った縦書きの集積を眺める。段落の冒頭の文字列を目でなぞり、それが頭に入った心地がしなくてまた同じ行を確かめて、さらにまたはじめに戻り、を繰り返した。ひとつひとつの言葉が分かっても、長い連結状態で示される文章の意味を汲む読書という作業は、楽譜を読む何倍も労力を削ぎ取られる。これが朗読になっていれば耳から吸収できるのではと試したことはあるが、音楽を聴く時のようにインプットの感性が自由になることはなかった。自分には向いていない、しかしこれを諦めると、新しい音楽の解釈を取り入れる機会は失われ、かつていた一部の演奏家たちと同様に、古い大勢受けの表現しかできない怠慢で退屈な人間になってしまう。
どうしたものか、とため息つきながら、ほとんど咀嚼できたとは言えないページをめくる。隣の青年はうっすらと湯気の上がる紅茶を飲み、熱心に編み物をしていた。濃い橙色の細い糸を引き、目の硬くて模様が綺麗な長方形を編んでいる。先に鉤のついた金の針で、糸を輪にしてそのループを別の輪に通し、というシンプルな作業を反復していた。それを辺の端から端までやると高さは5ミリメートルほど延伸する。左手の平の先にある尻尾みたいに垂れたそれが今までの5ミリメートルの連続が繋がってできたものらしい。考えるだけで途方のない作業だ。読書の文字を読み進めていく工程に少し似ている気がする。いや、文字は既に編まれたものを解いていく方なのかもしれない。長い時間かけて作り上げたものをバラして一度成立していた構造物を壊す。どうかな、それも少し違う気がするが。
ふたりの境目あたりに置いたままのメモパッドは今は何も書かれていなかった。スタイラスペンはホルダーから外れた状態でそばに転がっている。手に取って、今の編みかけの糸を引いて解いたらどうなるかと尋ねてみるか。
伸ばしかけた手をまじまじと見つめ、俺はいよいよ気が触れたのだろうかと思った。近頃の収入の激減、頼れる身内もなく金が尽きれば仕事も生活も終わるという焦燥と絶望、この業界にいた年月の長さで鈍感になってほしい感覚が、歳を重ねるごとにかえって鋭敏になっていく。そのせいで、普段は考えもしない余計なことに思考を明け渡してしまっているのかもしれない。
編み物の手を止めた白い手が、針をするすると引き寄せて糸の輪を大きく広げた。本当に解いてしまうのかと思ったが、どうやらそれが作業を一時停止する所作のようだった。鉤型の針を筆箱のようなものにしまい、編みかけの尻尾と毛糸玉はわりとぞんざいにリュックの中へぽいぽいと放っていった。俺は開いた次のページに栞を挟んでもう読書を諦めている。
最後に軽く口をつけて紅茶を飲むと、戸谷青年はカップに残る唇のあとを親指でなぞって拭いた。おんなみたいだな、と思ったのは、さっきの何気ない告白のせいか。
《お待たせしました。お店あけます》
俺に見せてから、文字が写ったままのメモパッドを最後にリュックにしまった。鞄の中に入った時にペンがホルダーから抜けて落ちたような音がしたが、もちろん彼にはそれが伝わっていない。
マグカップを返却カウンターに下げて店を出る。信号のない横断歩道を渡り、ビルのエレベーターに乗って例の鉄扉の前へ向かうまでのほんのわずかな時間、男がふたり連れ立って黙って歩くことが、困ったことにまったく落ち着かなかった。
前に広内と店に来た時も、駐車場からここまで何か特別な会話をしたということはない。ただ自分の意思で口を開かないのと、沈黙しか選択肢のない今とでは絶対的な相違がある。
道行く者が、すれ違いざまに俺たちのことをちらっと見た。別の人間がスマホ画面に視線を注いでいるのも、わざと目を逸らすためではと思ってしまう。エレベーターを待つ間に自分のポケットから端末を取り出し、うんざりするほど溜まった通知を見てようやく、ここのチャット画面に文字を打てば相手に読んでもらえるということに気づいた。
LINEのトーク一覧から自分にしか表示されない「メモ」を探し出し、画面を開く。前に何かを書き込んだ履歴はなく、画面の上部には「あなただけが見ることができるトークルームです。テキストや写真、リンクなどを送信してみましょう」という短い説明文が表示された。
いつも通り誰かとチャットする感覚で入力したものを吹き出しにして相手に見せればいい。ここまで準備が整うと、今度は出したい時にくしゃみが出ないと思う瞬間のように、急に欲求が引っ込んでしまい、何について話しかけようとしていたのか、分からなくなってしまうのだった。
青年が鉄扉を開錠して、明かりの落ちた真っ暗な店内へ先に入る。ほのかに嗅ぎ取れる古い脂の匂いが気になって大きく息を吸っていると、列なす蛍光灯がぱちぱちと瞬きみたいに点滅してからぼうっと白光を膨張させていった。壁のスイッチに手を添えながら天井を見上げた彼は、少し安堵したみたいに眉尻を下げ、自分のリュックをレジスターのそばへ置いた。
さっそく例のピーマン色をしたエプロンを着るのかと思ったが、打ち出したレジのレシートをちぎると、ペン立てから企業名の入ったボールペンをひとつ引き抜く。さっきのメモパッドよりさらに洗練された筆致で、商品を棚からすぐに取ってくる、と走り書きされた。
急いで屈んでいる影の上にひらひらと手を振る。喋れない時の仕草というのは、こうも簡単に伝染して同じになっていくのかと、素直に感心してしまった。
「俺、行けるよ、自分で」
こちらを向いてくれればいいと思いながらゆっくり口を動かして言ってみたが、次のセンテンスを書き始めている彼には伝わらない。やや斜めに記されているさまは声で話せばもごもごと言い淀んでいるところなのか、徐々に小さくなった隙間のない文字が感熱紙の裏に綴られていった。
《こんなことをお願いをするのは失礼なのは分かっているのですが、もう少しお話する時間がほしいです。連絡先をお聞きしてもいいでしょうか。ダメなら捨ててください。糸を取ってきます》
口話であれば一息に、びっしりと書いたレシートをそのまま片手で俺に渡すと、若い店員は踵を返して通路の隙間へ消えていった。もし、ラミーリネンを取って戻ってきた時に俺がいなくなっていたら、戸谷幸里はどう思うのだろう。扉の音も気づかない生活があたり前の世界を想像するには、断片の周りを埋める推測があまりに多すぎる。
レジスターから吐き出されたばかりの、短いレシートの裏面の上に置かれたペンを、ためらいつつゆっくりと拾いあげた。一度ポケットにしまったスマホをまた手に取る。普段使わない設定画面を何度も開いては閉じ、ようやく見つけた自分のLINEのIDを写しとった。無作為な英数字の羅列で、汚い字からそれを判読するのは難儀なことだろう。そうやって先回りの言い訳を作り、相手から連絡がもらえなかった時の、無駄に大きな労力をかけて無感情に努めることもそれなりに疲れる。いつもは女性にすげなくされればこちらもあっという間に熱が失せるくらい淡白な人間のはずなのに。自分でも保身のあまりこの状況に敏感になる理由がよく分からなかった。さすがに考えすぎだろう、手芸屋のピーマン相手に。
ダメなら捨てて、と黒字で刻まれたフレーズを見て、俺はそれを屑籠へそっと押し込んだ。
もともと自分が未知への探求欲を満たすために相手に取り入り、ひととおり内面からの暴露を促し、そのくせ扶けたり救済したりなどは毛頭考えずに逃げてしまう狡い人間であることをよく知っていた。ひどいことをしている自覚はある、良かれと思い自認する欲求を殺す、本能を抑圧した結果、相手に最大級の損傷を与えてしまう。
商品を持ってレジに戻った青年は、いつもと同じ少し惚けた真顔をしていた。ボールペンがもとの位置に戻されレシートが見当たらないのをすぐに察したのか、手早く商品を紙袋へ入れてレジに金額を打っていく。
釣り銭が出ないように端数まできりよく支払い、書いてもらった領収書を受け取って店を出た。エレベーターの中で確認した宛名の「篠宮」という字が、今まで四十余年書き続けた自分のそれとは比べものにならないくらい美しく正しい形をしていた。短冊状の紙の端をそろえて二つ折りにしたのを紙幣入れに差し込む。俺が相手を突き放したことに対するわだかまりよりも、手元からまた現金が消えていく、この先にどうなっていくのかが分からない靄の中の生活の方が、今は憂いが大きい。
《ファゴットはどんな音がしますか?》
もう少し話をしたいと思ったのは何についてだったのか、と尋ねると、彼からこう返事があった。
時計を見ると夜九時を回っている。本当であればもう楽器の音は出さないと自分で決めている時間帯だったが、LINEの通知に気づいてから、三十分程前に片づけていたファゴットをケースから取り出して再び組み立てた。作製用ではない、自分が演奏の本番で使用するリードを取り出して水入れに浸ける。発音帯で使われる二枚合わせのリードは葦の茎でできていて、水分を含ませることによって振動の効果を得るのが特徴だ。大きな楽器ぜんたいからすれば小さな部品であるそれが、俺たちでいう、声のかたちが決まる要になる。
手早く組み立てた楽器にボーカルとリードを取り付けて、半音階を慣らしで吹いた。曲はさらえていないが何時間も音出しした後なのでアップ後の状態と同じだ。
作業場に立てた譜面台にスマホを置き、インカメラで動画の撮影ができるようにした。録画ボタンを押してから一言も発さず、ストラヴィンスキーを少し吹く。一般のひとでファゴットという楽器の音色を認知できるひとはあまり多くない。有名なソロ曲を挙げてもそれ自体が知られていないことがままあるし、オーケストラの中では他の音色に混ざりやすい損な役回りだ。よくジョークで「こんなに練習しても本番では一音も聞こえない」などと自虐を言ったりする。
それでも俺は素直にこの楽器の音色がそれなりに好きで、それはおそらく人間の声とは違った形をしているのが魅力だからなのだと思う。ヴァイオリンなどの弦楽器はよくひとの話し声に似ていると言われたりするが、ファゴットの、もこもことややくぐもったような音色はほかにない魅力のひとつだ。
というのを、持たない言葉を尽くしてあれこれ文字にするのは俺の役目ではない。楽器吹きが質問に答えるのは奏でる音に限る。
一分足らずの動画をトーク画面にアップロードするのは一瞬だった。画質が乱れるのは別にどうでもいいが、圧縮されると音声データがさらに劣化することまで気が回らず、送ってしまってから後悔する。本当は生で聴くのがいちばんだと、誰もが分かりきっていることをテキストで添えようかと思ったがやめた。撮影したわずかな時間の後に再び楽器を解体して水気取りのスワブを通していると、動画のアップ時刻の下に既読の文字がつく。
戸谷幸里から最初のメッセージが来たのは、開店時間ちょうどに店を開けてもらってラミーリネンを買った翌日の晩だった。
連絡が遅くなった詫びから始まったトークには、捨てられたレシートにIDが書かれているのを小畑さんが見つけてくれた、と書かれていた。どうやらもうひとりの店員であるニンジン婦人の名前らしく、彼女は店舗の元の所有者である戸谷の祖母の友人なのだという。
《昨日の朝のことを話したら小畑さんはとても驚いていました。ぼくが自分で誰かに話しかけたというのを初めて聞いたって。レシートに証拠が残っていて、さらにびっくりしていました。ちょっと恥ずかしいです》
直接対面して会話をしていないというだけで、画面の中の彼は完全に健常者だった。視覚で会話を読み取り、意味のなさない声しか出せず、少し場違いな表情を浮かべて無関心そうにしている、その姿がべつに悪いわけではないが、視覚情報の遮断によって人物の印象がまったく変わってしまうことに妙に感心してしまう。
《連絡先を渡すか渡さないかで迷いました。渡さないことにするなら、レシートは持ち帰るべきだった。変なことしてごめん》
こちらからの大人げない返事も、彼はただ驚いて嬉しかったという言葉で許した。
「友だち」としてつながった戸谷幸里は、ワイシャツに藍色のネクタイを締めた胸元の写真をアイコンにして、名前をユキと表示していた。衣装みたいな服、結婚式にでも行った? と尋ねると的中で、昨年あった兄弟の披露宴の日に撮ったものらしい。ネクタイは自分で編んだと聞き、朝のコーヒーショップでも似たようなものを作っていたことを思い出した。売り物になる、というのはさすがに安易だろうか。その時は、手工芸品の相場や商業性についてまったく明るくないので、金を払ってでもほしいというひとがいるだろう、という推察だけを返事に書いた。
《篠宮さんは、お金を払ってコンサートを聴きにくるひとたちの前でいつも演奏してるんですね。すごい》
文字だけの対話は、彼の落ち着きのある言葉の表現を頼りに成り立っていて、俺の返事は送った分だけ拙さばかりが目立つ。だから、ファゴットの動画を送った直後、饒舌なユキには珍しく短い返事が返ってきた時、ようやく年相応の素直な感情が見えたと思った。
《どんな音なのか分かりました》
クロスで楽器のキーを拭きながら、表示された吹き出しを数秒の間凝視した。つまりは何が言いたいのだと詰め寄ってしまうような若気は既になく、続きがあるのだろうな、と画面が切れるまでの数十秒のうちにまた送られてくるであろう追報を待ってみる。
しかし期待していたタイミングでは彼からの連絡は来なかった。結局楽器の片づけを終えて、軽い夕食を摂り、そのままテレビの前で晩酌をしている時に、ようやく端末が再び点灯した。
《聞こえないので音が分かったというのは正しくない言い方だと思います。でも普段はほんとうにほとんど聞き取れないんだけど、篠宮さんの動画は、たまに遠くで何か音がする感じがありました。後ろを振り返りたくなる感覚です。あと、スマホの下のところに指を当てて握ると、細かくしびれるみたいな感じが伝わります。すごく面白くて、何度も演奏の動画を見ていました。さっき、音がうるさいと家族に怒られたところです》
焼酎のソーダ割りを飲みながら、送られてきたメッセージを何度も読み返した。演奏というのは自己の良し悪しに関する自己評価とはまったく無関係に、聴き手の評価が絶対である。この時の演奏をユキが面白いと思うならそれが正だ。悪意なく、純粋に聞かせてよかったという感想が浮かび、それに最も近しい印象のスタンプを送った。応答を求めないつもりでいたのに、今度は時間をおかずすぐに返事が来る。
《自分で送った文を何度も読み返していて、〝面白い〟という言葉が良くなかったかもしれないと思いました。普段は見るだけでもとてもわくわくしていたと思うのに、さっきは、もっとすごいことをはじめて体感できたっていう気持ちでした。ただ嬉しいという意味だけで伝えられればよかったのですが。うまく言えなくてごめんなさい》
《別に、そういう意味じゃないよ。楽しんでくれてよかったです》
《こんなに自分が音を感覚として分かるものだと思っていませんでした。もしかしたら今までも手で触れれば認識できていたのに、気づかなかったのかも》
《音の伝達は波長が長いと物体を振動させやすい。ファゴットは音が低い楽器です。喋った時に喉に手を当てると震えるのが分かるのと、あなたが携帯でやった遊びは同じ》
《吹く時に篠宮さんの体が揺れるのもとても面白かったです。あれはわざとですか?》
《出す音に合わせて動いていると思うけど、言われると恥ずかしい。俺はわりと動きが大きい方です》
そういう他愛のない、特に話の発展や収束を求めないやりとりが、頻繁に行き来したり、しばらく留め置かれたりしながら、いつの間にか数か月あまり続いていた。その間にラミーリネンの残量が尽きることはなく、むしろ徐々に現場の仕事がまた増えてきて、リードの製作は自分が使用するもの以外はほとんど着手できていなかった。ユキとは、渋谷の楽器店に顔を出した時と、六本木のコンサートホールで本番があった帰りに、それぞれ近辺のコーヒーショップで会う約束をしている。一時間かそれにも満たない談笑の時間を、メモパッド越しにやるというのは普段の活字のやりとりに比べて純粋に非効率だったが、情報がチャットの文字だけに絞られた時の良い印象に甘えて対面を疎んじるのは不誠実だと俺が勝手に決めてやったことだった。
彼の顔を見れば、やはりさほど楽しそうでもなく、何をしていてもすげない感じはあった。それでなくとも音の聞こえない人間に自分の仕事の話をするのはさすがに無理がある。色々と思うところはあるのに、俺がただ話すこともなくメモの板面に車の絵などを描くと、ユキが《もっと見たい》と文字でせがむのとか、そういう些細なことだけが頼りで、この不思議な関係は続いた。
はじめの方はロングコートを羽織って会いに行っていたのが、この頃はすっかり上着の要らない季節になった。
「徹、トオル、電話鳴ってる」
オフの日に家で料理をしていると、リビングの奥から起き上がるのが億劫そうな声に何度か呼ばれる。しばらく無心に豚肉の炒め物をしていた俺は、そういえば今、家の中に自分以外のひとがいる時間であることを思い出した。ひとり暮らしの期間が長いから、他人が自宅に滞在しているという状況にいつまでも慣れない。
滞在という言葉を使うのは、相手の女性を家に居座らせている状態を、約束というよりも契約だと思っているからだった。二つ年上のナナミは時折東京での仕事を受けて出張する以外は地方暮らしの既婚者で、演奏家としてだけでは生活していく稼ぎがない半端なプロ生活をしている。本人もこの歳で今より売れることを考えようともしていないし、もともと指導者には向いていないと言っているから進展も後退もない。ひとりでは生きていけないから配偶者との生活を続けているが、そちらとの関係もまた破綻して久しい。彼女にとって俺は、雑に言えばセフレ、丁寧に扱えば不倫相手で、互いの求め方にはただ都合の良さだけが重要視されていて、面倒な等価交換は存在しなかった。
電話が鳴る、という言葉は、仕事の打診がある、と読み換えるのがこの業界の常だ。急いで火を止め大股でキッチンを出る。テレビの前にあるテーブルからスマホを取り上げて画面を確認すると、ただLINEの通知が入っているだけだった。
《家族が外出中に親戚からオクラをたくさんもらいました。明日までひとりなんだけど、常温で保存しても大丈夫でしょうか。篠宮さんならどうする?》
「なんだ、電話じゃないじゃん」
ソファに寝そべって伸びきった後ろ姿に向かってぶっきらぼうに返してから、通知をスワイプさせスマホのロック画面を解除した。予測変換を使って短文の返事を手早く入力する。
《オクラ! もうそんな季節か。俺はおひたしが好きでよく作る》
「だって、すごい音でブーッて言うんだもん。うるさいから着信かと思ったの。言わないと怒るくせに」
《おひたしにしたオクラはたぶん食べたことないです。美味しそう、作るの簡単ですか?》
「料理が中断した」
「じゃあまた始めれば。今LINEするのをやめて」
「あのねえ、おまえがこれ呼んだから今見てるんだろ。そのまま返事打ってるところだって」
《簡単。ちょっと待ってて。あとでレシピ書いて送る》
「可愛い子なの、ユキちゃんって。いくつ下? もしかしてまた同業?」
送信ボタンをタップして、吹き出しがトーク画面に押し出されたことを確認してから端末のスイッチを切る。自分が詮索されたくない代わりに相手にも干渉しない、いつからいつまでと関係の期限を定めない、それは彼女から言い出したことだった。守る義理もないがこれまで相手の夫婦生活について何も確かめたり問いただしたりしていない。ただそれは完全な不可侵を守るための努力としてはムダなことで、さっき通知が来た時のロック画面を彼女が見ぬふりをできなかったことについて、一切の引け目を感じていないようだった。
「どうかな」
「言わないんだ。珍しい、少し本気なのね。じゃあまだ寝てないってこと」
手の中のスマホが再び点灯した。
《忙しいのにすみません。ぼくも検索してみるので無理はしないで。今日は店が休みだからのんびりしています》
絵文字のないそっけない文字の配置だけで、実際に聞いた声が重なるのでもないのに、言葉の端々に柔らかさを感じる。たとえユキが家族に守られて生きてきたのだとしても、傷ひとつ負わずに大人になれたわけではないだろう。だからこそ、第一印象は装甲の厚い自衛が前面に出ていたわけだ。今こうして丁寧なやり取りをされると、まるでこちらが壊れ物に触れられているみたいだと思う。
ナナミの言葉から同性との性関係について提起されてはじめて、俺はこれまで仮定でもそれについてまったく考えたことがないのだと気づいた。本気、と表現されたものを短く吟味してから素直に「なるほどね」と返事する。
「なに、なるほどねって」
「たとえばケーキの話してる間は頭の中にフォークをさしたケーキの絵が浮かぶだろ。同じようにセックスの話をする時に、挿入する穴の絵を想像するってこと」
「なんかトオル言ってることが変だよ。だいぶ疲れてるんじゃない?」
疲れてはいない、男性の排泄口について唐突に言及されたので、今まで無関心どころかやや拒絶反応まである領域と思しき場所をうろうろして、自分の許容値の境界あたりを探ろうとしているだけだ。戸谷幸里は細くて白いから、男と分かった今でもほとんどおんなみたいに見える。ちょっとあの面借りて自慰のおかずにしてみろ、と言われれば何とかなりそうだ。
かといって、そういうことを今までにまったく想定していなかったので、あまりに抵抗なく同性のセックスについて検討している自分に驚いたというのが今の本音だった。実際ほんとうに彼が女性だったら、ちょっと失敬してひと口食ってみるかということになり、今頃はとっくにその試行は終わっていたと思う。
《無理してないよ。せっかくの休み、満喫して》
スマホに返事を打ち終えて紙飛行機のマークをタップする。相変わらずソファに身を任せてだらしない姿勢のままのナナミのところへ歩いていった。上から見下ろすと、テーブルに置かれたマグカップの底はずいぶん前に飲み終わったコーヒーの茶色い円形の線が何筋もこびりついている。首まわりの緩い部屋着の襟元からのぞく鎖骨、豊満ではないが形の良い乳房、贅肉のつかない長細い腕が座面に折り畳まれて置かれていた。化粧していない年相応の顔が、なあに、とあちこちに皺を作り、眩しそうに俺を見る。
彼女の頬にはりついた毛を払い、指で長い茶髪を簡単に手で梳いた。太くて節ばった俺の指の隙間を抜ける後ろ毛は、やや乾いていたが芳香に似た匂いがして、自分とは違う物質として存在しているのを感じた。
「そろそろ帰ろっか」
「……え」
「ミナミの旦那、もう家戻ってるんじゃない。今帰っても夕方あたりに着くから、あっちの駅でタクシー乗らずに済むだろ」
ある時とつぜん、こうやって俺がひとと一緒に居られなくなる時間があることを、彼女は昔からよく知っていた。相手が嫌いというわけでもひとりの時間を搾取された鬱憤でもなく、ただ単に、もうこの場面は終わりだなと思ってしまうと、状況の説明をしたり嘘で取り繕ったりすることなく、目の前にいる訪問者を急に追い出してしまう。
今回も、東京公演のあと二日間、俺の家で悠々と延泊していた彼女は、慣れた様子でぱっとソファから起き上がると、手早く身支度を始めた。
「そっか。あとで一回シたかったのに」
「ごめん、またこんど」
「はあい」
作りかけの豚肉の炒め物がフライパンの上に取り残されているうちに、ナナミはあっさりと家を出て、当然のように彼女が持っている合鍵で外からドアを閉めていった。
エアコンの効いた部屋を換気して、フローリングにクリーナーをかけながらLINEの通知を確認する。
《連絡がくると会いたくなるのは、ぼくが電話では話ができないからだと思っていました》
《篠宮さんは、文字を入力するの、きっと億劫ですよね》
《声を聞きながら料理ができたらよかったのに。こんなこと言ったところで、しかたないけど》
速やかに訪問者の痕跡を消そうとクリーナーを滑らせていた手を止めた。もし、少しの知恵と技術があれば、音のない通話も映像で解決できるだろうし、てっとり早く対面で、みたいな前時代的なことは発想から除外されていただろう。
それでも俺たちはひとがホールに集まってくれないと成立しない生業をしていて、現場で楽器が実際に演奏することの希少性と表現技術の精巧さを売っているのだ。身を削るように自らをちぎっては投げ、ちぎっては投げ、尽きるまで己から絞り出せるものを芸としている。そういう意味ではユキは俺といちばん小さな舞台越しに向き合う観客なのかもしれないし、もしくは人すらいない、がらんどうの
客席の代わりに彼が在るのかもしれなかった。
ソファの背もたれに尻をつき、既読をつけたメッセージの下に文字を入力する。送る前に読み返して、要らない読点を削り、言い訳がましい濁し文句も省き、下手な推敲を繰り返して、最後にもういいと諦めて送信した。
《そのオクラそのままうちに持ってきたら。乗り換え調べて駅までおいで》
テーブルを拭き、シンクに運んだマグカップに漂白スプレーをかける。フライパンに再び火を入れ、換気扇のスイッチを強にした。砂嵐みたいに同じ粒の連続であるプロペラの駆動音は、泣き止まない嬰児に聞かせるとよく眠るらしい。
ユキの耳奥に渦巻くものが、この換気扇のような穏やかな雑音であればいいのにと思う。
*
その日は有楽町でバレエ公演の本番があった帰りで、はじめ、終演後に東京クラフトセンターへ顔を出す予定はなかった。
昼からの本番が上がった後に内輪の軽い宴会があったが、それでも一般的な飯時よりは早い時間だったから、帰りのJRの改札へ向かう途中、ふと一緒に食事でもどうかと思ったのだ。
今日までの仕事はコントラファゴットの演奏だったから、楽器は初日に車で搬入してから引き取りの日までオケの預かりになっている。使ったリードを入れたボディバッグひとつの身軽さも、店に足を向けるきっかけだったかもしれない。
ユキには連絡を入れなかった。仕事中は作業に没頭しているとあんな調子だから当然チャットの通知は気づかない。もしも彼が不在でニンジン婦人しかいない日であっても、それはそれでちょっとした散歩になったと思えるほど心に余裕があった。打ち上げで乾杯の時だけグラス半分のビールを飲んだからではない。元々酒はいくら飲んでも物足りないくらいだから晩酌代が嵩んで困っていたし、リードの納期近くはだいたい酒を飲みながら深夜までメイキングという研磨作業をする生活をしていた。もしも彼に会えずこのまま帰宅しても、買い置きの焼酎を水割にして晩酌を始め、そのまま就寝まで飲み続けるのだろう。
夜風の心地良い季節が到来していた。前にユキがオクラを持って家に来た日は、駅から家まで歩く距離だけで吹き出る汗が止まらず、結局ほとんど車を使って近場の移動を済ませた。彼の親戚が育てたオクラは、収穫期を過ぎていたのかどれも筋が硬くなっていて、浅漬けをビールのつまみにしてふたりでよく噛んで食べた。また近々、今度はスーパーで買ったオクラを使ってもう一度、と言っているうちに、嗅ぎ慣れた夏の匂いはすっかり失せてしまっていた。
銀座三丁目のコーヒーショップの前を通りながら、対向のビルを何気なく見上げる。その時初めて、店の看板の灯りが落ちているのに気づいた。
定休の曜日ではないから油断していた。棚卸しか何かだろうか。避難経路用の窓からいつもワークショップ会場が見えていて、そこには積み上げられた段ボールの影がぼうっと浮かんでいた。事務的ではあるが常に整然とした店には珍しい光景だと思った。これは来たタイミングが今日でよかった、と言っていいのだろうか。
エレベーターで四階へ上がってみることにする。鉄の扉にはり紙でもしているかもしれない。ハネ・トメ・ハライが完璧に配慮された、あの教科書の手本みたいな筆致を想像しながら頭上で階数のランプが点灯するのをぼんやり眺める。
エレベーターを下りると、東京クラフトセンターの鉄扉は開いていた。薄暗い店内は奥の棚の方に微かな灯りがあるだけだ。ひとの気配はない。入り口にも段ボールがみっつ放り出されていて、ひとつは取っ手のない底面だけの台車に乗せられていた。
「こんにちは」
声を出してみてから、これはあまり意味のない行動だったと省みた。もしかしたらそもそもが相手に聞こえることを期待しておらず、自分の小胆を奮い立たせるような効果があってこの発声の習わしがあるのかもしれない。ユキに伝わるようにするには音よりも光の方が早くて確実だと気づき、ポケットからスマホを取り出した。カメラの脇についているフラッシュライトであたりを照らすと、すぐ近くで物音がする。こちらの目が慣れるより先に、ライトの前にぬっと縦長の布地が現れた。暗がりの中の黒板みたいな色が、彼がいつも着ているピーマン色のエプロンだとすぐに分かった。
「真っ暗、なにしてるの……ごめん、少し待って」
ライトを自分の方に向ける。顎の下から顔面に光を当てて照らしながら彼に近寄っていくのは、我ながらかなりのそぞろ寒さを感じた。ライトの外側にいるユキの肌が、薄闇でいっそう白く見える。
彼はあの時に俺が取り上げた、オリンパスの赤糸を両腕に収められるかぎり抱え持っている。外装のビニールが剥けて中身が見えているものがあったが、今の彼はそれにも構わず、ただあちらからこちらへ在庫を運び、箱へまとめて放るために動いているようだった。それなら袋に詰めて取っ手を持つ方が多く運べる気がするが、やはり俺の知るピーマンのエプロンを着た青年はそれを思いつかないらしい。
やっていることは入荷した在庫の整理ではなかった。あるものぜんぶここから追い出して店を空にするという単純な後始末、東京クラフトセンターはついに閉店するのだった。
答えなくても現状を理解してもらえたと思ったのか、そのまま脇を通り過ぎようとするので、ぐいと腕を引いて均衡を崩し、赤い綿糸の玉をぼろぼろと床に落とさせた。普段はすっとぼけた無表情をしている彼が、狼狽えて眉を寄せる。
目が合って、こちらも少し睨んでやると、いつも優しいことばばかり選んでつかう青年が、無遠慮に鋭い声を上げた。
「と、とと、う」
「突然来て怒ってる? だって普通に店やってると思った。こっちが聞きたい、前に会った時はおまえ何も言ってなかったろ」
囲った腕の中にある赤糸をいくつか受け取る。足下にある荷物が半分埋まった段ボールの隙間にそれを仮置きして、ユキの片手が空くくらいの分を箱の中へ落とした。青年は猫みたいにううう、うううと小さく唸りながら立ちすくんでいる。背が丸まってたわんだエプロンの胸ポケットには油性ペンとカッターがあるようだが普段の会話に使うような筆記具が見当たらない。鞄の中を漁って、ペンとメモ用紙として使える何かをまさぐっていると、彼はその場でしゃがみ込み、赤糸を詰めた段ボールのベロみたいに外へ伸びた天面のところへかがんで油性ペンのキャップを抜いた。かさかさとペン先が擦れる音がする。
《小畑さんは、祖母が亡くなったあともずっとここで働いてくれていました。お給料もぜんぜん出せていなかったんですが、通うのが楽しいから、と。さいきんはご家族のお世話でなかなかおうちを出られなくなり、昨日が最後でした。小畑さんには店を続けるとうそをつきました。片づけはあまり時間をかけずに終わりたいです。もう半分くらいはまとめて処分をしました》
文字を綴る手が止まった。言葉を選ぶみたいにペン先が宙を空振りしている。まだ何が言いたいことがあったみたいだが、彼は結局それを諦めた。少し離れたところに続きをさらさらと書く。
《しのさんが使っているもの、もっていってください。お友だちの分もよかったら。たくさんあるなら送ります。ぼくはこれだけあると、結局使えずにすててしまいそうです。量が多いから、祖母の家にはこぶつもりです》
息を詰めて一気に書いていたのか、顔を上げたユキは音を立てて吐息を出した。物を失ってしまう焦りとか憤りとか、しかし意外と泣きたいほどに悲しくはならない呆気なさとか、歳を重ねれば自然に慣れてしまう感覚を、彼は今、鮮明に全身で感じているようだった。聞こえないからいっそう鋭敏に伝うのか、握った拳は震えを押し殺しているように見える。
目が合ったあともしばらく動かない俺に、ペンを持った白い手がゆっくり差しのべられた。ファンタジアで魔法使いの弟子であるいたずら者が、混沌を鎮めた師におずおずと箒を差し出す場面がなぜか思い起こされる。受け取ったペンのキャップでその鼻面をつつくと、彼は両手でぱっと顔を覆って目を丸くした。日頃は貧相な情緒表現のユキがびっくりしてひっくり返りそうな時、俺も自分がどんな顔をしているのかよく分かっていない。太い方のペン先をキャップから出して、段ボールの隅に返事を書いた。
《ひとりでたいへんでしたね。はこぶのてつだっていいかな。明日もオフなので》
皆まで書くのを待てない手がひらひらと遠慮の否定で振られる。キャップを開けたままのサインペンをそちらへ渡す。何を急いているのか、彼は利き手とは反対の手でペンを受け取り、短く文字で答えた。
《大丈夫、とおいから》
《どこ》
どこ、と書きながら、それはどこなの、と無意識に口に出している。たった二文字の伝達が声を使う伝達よりはるかに時間がかかり、著しく情報に不足があることはこれまでのやりとりで嫌というほど理解していた。多分この不便さは、ファゴットという楽器を吹くのと似たようなことなのだと思う。あんなに大きくて難儀な機構をしていて、一生懸命に息を送っても単音しか出せない、それも金管楽器や弦楽器に容易くかき消されてしまうくらいの。バッハの時代からあった古参なのに特殊楽器などと言われる。まあそれでも、俺らは敢えてそのおかしな楽器を自分の表現法として選んでいるわけなのだ。ユキの運命とはまったく解釈が違う。
聞こえないのは分かっていても、俺は彼に話し続ける。目で見る唇の動きが音でもいい、耳に吹きつけられる風や、胎内の血流の音のようなさらさらと流れ続ける意味のないものに変容していてもいい、俺はユキに音の形を見てほしいと思っていた。
ぶっきらぼうな二文字に気圧されたのか、青年はピーマン色のエプロンの胸元のところをぎゅっと握った。怖がらせてしまったのか。なだめようと伸ばした手をぐいと引かれ、手の甲にぷつっとサインペンの先が当てられた。インクのぬめりが冷たく感じる。細いもので擦られるとくすぐったい。目を伏せてかさついた丘陵に真剣に文字を綴る横顔は、まっすぐ伸びた黒髪に半分切り取られ、長いまつげとすぼめられた口だけがはっきりと見えた。
顔を上げた青年がうの母音だけの言葉だけを発する。行先を告げるということは、俺を連れて行く気になっているということだろう。
静岡県沼津市。
手の甲に書かれた地名を指でなぞり「ぜんぜん遠くない」と呟く。唇をほとんど動かさなかったから、彼には読み取れなかったはずだ。促すように小さく笑うと、ユキが先によろよろと立ち上がった。エプロンの紐が交差する猫背は襟足が少しのぞいていて無防備だ。このなだらかな丸みをおびた背にぶつけても、決して気づかないだろうと、かつて心無い言葉を投げつけられたこともあったのではないか。打たれるのに慣れれば痛みが顔に出なくなる心緒は分かる。強張った外側のなかにある、柔らかい言葉だらけでできたユキの内側は、糸玉から先を引き出す時のように、少し縺れると絡んで解けなくなりそうだった。
「飯、片付けの後かな」
思ったことを無遠慮にこぼすようになっている俺に、頃合よくユキの腹の音が答える。ぐう、と景気良く鳴ったそれは、本人は腸の動きとだけ認識しているのだろう、まったく表情を変えずに梱包の作業に取りかかっている。相変わらず段取りの悪いなりにひとつひとつ手を動かしている青年の肩を叩いた。
腹が減ったのか、とゆっくり口の形を見せると、白い首がふわっと紅潮する。ケーキの話をする時はケーキの絵を、オクラの時にはおひたしになった場面を思い浮かべる。ユキと話すと料理の最中の絵が浮かんで、まな板の上で縦に割ったピーマンの、白くて柔らかい種を指でほじくり出す工程を何度も頭の中で反芻していた。小さくて柔くて無力な白い種がユキの体を掘るとはらはらと飛び出てくる。ヘタをもいでピーマンの内側をなぞり白い種をぜんぶ追い出すまでの指の動きを想像すると、そのうち彼の空きっ腹を掴んでこじ開けてしまいたくなる。
何を、どこまで。
不意に浮かんだ自問を打ち消すために考えるべき別のことを探そうとして、あるいはこのまま夢想の深みを見ようとして、近くにいるユキの横髪をひょいと手ですくった。暖簾をめくるみたいにすると、思ったよりしっかりした首がのぞく。耳たぶには穴がひとつ空いていて、ピアスはつけていなかった。耳にはワイヤレスイヤホンよりさらに小さくて細長い形の補聴器が嵌っている。ホワイトシルバーに塗られたカプセル型のボディは、俺が想像していた肌色の重たそうなそれとはまったく別の良質なデザインだ。
さっきはペン先で鼻をつつかれて驚いていた青年は、今は髪で隠した横顔を暴かれても何も動じていない。俺の顔を一瞥して、それからすぐこちらを責めるように視線を逸らし、荷物を運ぶためにまた陳列棚の方へ引き返していった。
ユキのうちがわから小さな白い種がこぼれ始めている。俺はそれを指で掻いて穿り出す想像ばかりする。
いつか、ファゴットの動画を送った時にどんなふうに聴いたのか、ちゃんと尋ねておけば良かった。それが嘘なのか、身に着けている補聴器はただの飾りなのか。聞こえない未知の世界に夢想を重ねる時間があっという間に膨らんでいく。
鉄扉までの通路の両脇に置かれた荷物は、あらかじめ振られた番号の順に運び出されることになった。台車はふたつ、ひとりで五箱ずつエレベーターに乗せて地下駐車場までを行き来する。駐車場には黒いミニバンが停まっていて、ユキが近づくとヘッドライトが光って鍵が開いた。
後部座席をフラットにして、足元から天井近くまで隙間なく段ボールを積んでいく。糸や布地の素材は紙などに比べ軽いものが多く縦置きしても問題なかったので彼が見込んでいたより多く積載できた。しばらく沼津通いをするつもりが拍子抜けしたのか、エレベーターの中で彼が段ボールの天面に《もう一回きたらぜんぶ済みそう》と丁寧な筆致で走り書きする。
「箱、汚れるよ。ケータイあるだろ」
ポケットから自分の端末を取り出してさし示すと、彼は頑固に首を振った。
《スマホはあとで使うから、今はぼくが話したいです》
言葉の真意を問う前に、扉が開いたエレベーターからその段ボールが先に滑り出ていく。全ての荷物を積み終えて運転席に回ると、反対側を回ってきていたユキと出会った。
「俺が運転する」
《どうして? ここまで運転してきたのに》
「あ、ぶ、な、い、から。いつもとちがう道で運転時間も長い、疲れて事故起こりやすくなるよ」
《無免だとおもってる》
「ばか、思ってない」
ぐずぐずしているユキの背を押して助手席に回らせると、彼はさっき俺を睨んだ時とはまた別の顔で、まっすぐな髪を持ち上げて耳の補聴器を見せた。こちらに伝わったことを目で確かめてから先に車に乗り込む。背負った荷物を下ろして俺が運転席に入るまでの間に自分の手荷物から出したメモパッドに《高度難聴》と書いてみせた。
彼からの説明を補足すると、ユキは全く聞こえていないわけではないが、生活音全般に反応できないくらいの重度障がいで、それを高度難聴者と呼ぶらしい。聴覚障がい者でも道交法によればクラクションとサイレンの音を認識できれば運転免許の取得が可能だ。視力の補完で眼鏡をかけているのと似たような感覚で、補聴器を装着していれば彼は法的に運転が認められていた。
《それでもおたがいが心配にならないために、サイレンとクラクションに反応するランプがフロントガラスにつけられています。鳴るとランプが光るので聞き逃しを防げます。聞こえていても自信がない時があって、ここを見て安心します。でも、踏切の鳴る音は聞き取れません。ランプもほとんど反応しないと思います。状況が見えていれば音がなくても渡れそうだけど、ぼくは迂回することが多いです》
こちらがメモパッドの文字を覗き込みながらうなづくのを、彼は視線の端で確認している。そういえば運転の最中は会話ができなくなるのかとふと気づき、細いプラスチックのペンを借りて、それまでの文字がイレースされたパッドに走り書きした。
《うんてん中、メモ書いたら肩をたたいて。すこしずつなら読めます》
するとすぐにユキがその斜め上に爪を使って《大丈夫》と返す。彼は鞄から出した端末に文字を入力して決定ボタンを押した。いつものメッセージアプリではなく専用の音声変換機能を使って、ユキはイントネーションがややちぐはぐの、ヒトではない女性の声で話し始めた。
「ゆっくりだけど、これで話ができれば、平気です。篠宮さんに聞こえていますか」
人間のたいていの感覚は脳の補正によって成立している。例えば夜空の月や花火は写真で撮影するよりも肉眼の方がずっと大きく見えるし、街中で歩きながら友人と会話ができても同じ場所で録音した音声は除去されていないノイズだらけで主音声が聞き取れない。
既に俺は彼が言葉ではない声を発するときの、男性の声域で話すのを知っていた。それなのに、今しがた唐突に聞かされた無機質で抑揚に乏しい女声が、さっそくユキの一部にすげ換えられてしまいそうになっている。
「聞こえる、逆もできる?」
預かった車のキーでエンジンをかけながら注意深く返事した。白い手が控えめにこちらへスマホを差し出していて、俺の声がアプリ内で文字起こしされていることを見せてくれた。
「じゃあ、俺が聞いてもらいたいとき、ユキの肩たたくよ。いい?」
運転手がシートベルトを締める仕草を見て、青年はいちど膝に端末を置き、自分も出発に備えた。サンシェードのポケットに挟まっている駐車券を確認すると、アスファルトに書かれた白い誘導線に従って地下駐車場を半周し、地上へ出る。
亀井橋方面の道に合流するためにウィンカーを出す。ヘッドライトを灯した乗用車を数台見送っている間に、女の声のユキがまた喋った。
「今さらだけど、篠宮さんはぼくが気持ち悪くないんですね」
後続車が途切れたタイミングで左折方向に出る。すぐ先の信号機の下で前方車両に倣って行儀よく並び、ブレーキを深く踏んだまま停まった。エンジンの回転速度が変わって車体が少し沈む感覚が伝わる。
ハンドルから離した左手を隣に伸ばし、伸びた黒い髪をユキの耳にかけた。こちら側には補聴器が付けられていない。耳たぶの同じような位置にピアス穴があり、男性の輪郭をしている首も鎖骨も手より白くて血管が透けそうだなと思った。リードの製作で葦の組織を灯りに当てて透かし見る感覚に近い。細かな繊維が浮かぶ表面を鳴動の良いところまで削って角度をつけ、水に濡らして乾かして、どういう具合になるかを見ながら調整を重ねる。つまり組織を壊しながら変化をさせていくのだ。
いつもと同じリードの工程で戸谷幸里を濡らして組織を壊すことを考えつくまでの間に、俺は大きくため息を吐いた。
「気持ち悪くない。おまえ、なにか勘違いしてるな。俺の方が汚い人間だよ」
首都高から東名高速までの乗り継ぎは思いの外スムーズで、昔から知られる渋滞の各所でも流れが詰まるようなことはなかった。道中、どこのサービスエリアで休憩するかなどと話しているうち、結局そのまま沼津インターの出口をあっさり通過する。
銀座三丁目から二時間足らずでたどり着いた伊豆北西端の街は、最後に訪れた時からほとんど同じ佇まいをしていた。俺の中での沼津は、海辺に並ぶユースホステルのどこかで、音大の指導者を招聘したアマチュア演奏家向けの夏季合宿に一週間ほど参加した時の記憶で止まっていた。インターから市街までの長い坂を下りながら、合宿中、嫌で嫌で堪らなかった潮風の匂いをぼんやりと思い出していく。
〈後略〉