わかりあえる世界

大人気ジャンプ作品「僕のヒーローアカデミア」の最終巻が、先日発売されました。
私は26巻が発売された頃から読み始めていて世界で1番好きな漫画でした。2020年春頃からなので、たった16年しか生きていない私は、人生の4分の1をこの作品に支えられて生きてきたということですね。感慨深いです、とても。

ヒロアカは、とても優しい物語です。
この作品で平和を阻む立場のキャラクターは「敵」と表記しヴィランと読まれます。通常の発想では、ヴィランであるならば「悪」と表記するのとはないでしょうか。ですが堀越先生はそれをしませんでした。正義の反対は別の正義、ということだと思います。主人公と対立するからといって、悪ではないんですね。
見据える未来が違うのであれば、自分たちの望む世界を叶えたいのであれば、立ち上がらなければいけない。そうして武器を取ったのが死柄木弔率いる敵連合だったわけです。

作中では、彼らの抱える過去や生きづらさなどが描かれています。社会から弾かれてしまった彼ら。復讐も破壊衝動も、種がなければ生まれません。彼らが社会に向ける憎悪の根本には、悲哀や絶望、孤独感があったのだと思います。
しかし、ヒーローがそれを阻みました。人が傷つけられていい理由などどこにもないし、望む未来のために他者を踏み台にしていい人などいないからです。ヒーローは、たくさんの人々を救わなければならなかった。

でも、それなら、彼らを助けるヒーローはどこにいたんだろう。

もしかして、自分がどこかで止められたんじゃないか。なにか出来たんじゃないか。
出久くんやお茶子ちゃんは、それをずっと自分に問い続けていました。死柄木の心の泣いている少年を、トガが一瞬だけ見せた涙を、見逃さなかったからです。彼らは最後まで、目の前のひとりの人間と向き合おうとしていました。
そして、救おうとしていました。
それは、ただ戦って勝つより、ずっとずっと難しいことです。当たり前ですね、完全に分かり合える人間なんていませんから。淘汰してしまえば楽なんです。それでも、どうにか共存する方法はないか、奥深くの悲しみに寄り添う方法はないか、考え、抗い続けた彼らは、遅くはあれど、本物のヒーローだったのでしょう。

現実、ここにヒーローはいません。
争いも、衝突も、戦争も、なくなりません。ネットでは様々な討論がされ、その中ではかなり強い言葉が使われたりもします。また、批判という皮を被った誹謗中傷もなくなりません。
傷つけること、傷つけられることが当たり前の社会になっているように思います。

共存とはむずかしいものです。
この世界にはたくさんの人間が生きていて、ひとりひとり考え方がちがう。譲れないもの、大切なものも、人によってちがう。
それぞれ事情があって、感じたことがあって、でもそれは人にはわからないんです。
だからすれ違いや食い違いが起こる。ちがうのに相手を自分と同じ基準で測ってしまったり、あるいは、ちがうから自分のことしか見えなくなってしまったりするんですよね。
悲しい事件もたくさん起きるし、みなさんもこれまでの人生のどこかで痛感することがあったのではないでしょうか。
人を思いやるって、言うほど簡単じゃない。

でも、みんなが、あと少しだけ相手の立場に立って考えられたら。あと少しだけ周りを見ることができたら。あと少しだけ、お互いを尊重することができたなら。

ヒロアカの人気キャラであるNo.2ヒーロー、ホークスは言いました。
「もしも、全員が少しだけ”みんな”のことを思えたなら。きっとそこは、ヒーローが暇を持て余す、笑っちまうくらい明るい未来です」

現実、ここにヒーローはいません。ヒーローがいたらいいのに、とも思います。
でも、ヒーローがいないからこそ、私たちは私たちで助け合わなければいけない。助け合えるはずなんです。
だって本当はきっとみんな、優しいんだから。
みんなヒーローになれるんだから。

私の小さい頃の夢は世界を救うスーパーヒーローでした。でもなれません。だからこれからはせめて、半径3mくらい守りたいです。
みんながみんなを思える、優しい世界になっていってほしいなと、そして自分がその一員であれたらいいなと、心の底から願っています。
そしてそう思わせてくれた堀越先生とヒロアカのみんなに、深く深く感謝しています、本当に本当にありがとうございました。

あしたのあなたが優しくあれますように。

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