安楽死小説『ヤミ 第1話』カン・ジョーより

アキラはこの暗闇の答えがはっきりと見えてくるまで、思考の術でここが何処なのかの答え探しを続ける。
ダンボール箱に入れられて森の端に捨てられた子ネコの様な。
間違って頭から貝殻の中に入ってしまったヤドカリの様な。
収集車の中へキツキツに押し込められたゴミの様な。
神経性のクスリを無痛針で知らぬ間に投薬されて盲目にされた様な。
酸素ボンベを口につけられただけの状態で完全密閉のコンテナに詰められてどこぞへ運ばれている様な。
銃身に籠められた砲弾の様な。
地上へ出られなくなった蝉の様な。
炬燵の中の冬の深夜の亀の様な。
自分の置かれた状況を想像から見つけようとすればするにつけ、湧き出るイメージがひたすらつまらない方に向かってスピーディーに進むものだから、アキラは一旦は意識を想像から外して、発想を枯れさせてゆくばかりにしか作用しない時間を呪い始める様になる。時間を呪うことで空想の作業から解かれ、何の役にも立たない時間への恨みの方へ向けられていったはずの意識は、そこにはそのまま留まらず、次第に沸き立つ身体機能の不穏に気づき出す。
両手の親指の付け根の太い筋肉をコアにして、チューブからゲルを絞り出していく様に小指と薬指の指先へ向けて細かな痛みが伴う痺れの流れが増大していく感覚がする。しかもその痛みを伴う痺れが蓋なんて付いていない指先のどこからも押し出されることはあるはずがなく、その痺れは親指の付け根と指先の間の神経に充満すると同時に身体中のリンパというリンパが熱を帯びていく。その熱を恐れて反発するかの様に寒気が肋骨を通じて腹部を駆け回って胃壁をぎゅうぎゅうと押し込めていき、終いにはその圧迫感に負けて嘔吐から胃液を吐き出してしまった。そのことでリンパが帯た熱は冷めたが、手の平の痺れは治るばかりか、全身を覆い出した寒気が重なって、氷の上で息途絶える寸前の釣り上げられたワカサギの心地を思う。
とにかくアキラはこの不穏な痺れと寒気を綺麗に取り除きたくて、手首から千切れんばかりに両手を思いっきり振りまくった。その勢いで、嘔吐から喉に張り付いていた胃液が口腔へ移動して来て、その酸味の強い胃液の刺激で咳き込むこととなった喉仏のあたりにもまた別の痛みが突き刺さるが、それでも痺れと寒気は残ったままだ。そして立ったまま顔を下に向けて体を前傾に折った状態で咳と浅い呼吸とえづきを間断なく繰り返しているアキラの顔面は、長い時間を熱しながら放置されてポコポコと激しく沸き立つ鍋焼きうどんの様に崩れ果てて汚れているが、もはやこの暗闇の中ではゲロや涙や鼻水をどうかしようという気も起きない。いや、もう何をする気も起きてはいなかった。
「だから。鍋焼きうどんの中で半熟になった卵は、はじめにトンスイに取り分けておいてから食べ進めるのが正解なんだよ。」
「あなたが動けば。」
とつとつとした声がおでこの辺りを目掛けて放たれて来た。アキラは首を垂れたままの同じ、姿勢で嘔吐や咳や痛みの疲れで枯れだしている薄い声で、低く呻きながらその声の発せられる位置と話の続きへ意識を集中させている。
「立ちふさがるものはあなたの先にも後にも左右にも何もありません。もしもイスに座りたいと考えて腰をおろせば、そこにはイスがあります。もっとゆっくりしたいと考えれば、たちまちイスはソファーへと変わり、眠りたくなった頃には使い慣れた快適な寝具があなたを包みます。それから、お腹が減って焼き鳥が食べたい、と考えて人差し指と親指の指先をくっつければ、あなたのその指先は熱々の焼き鳥が刺さった温かい串を掴んでいますので、美味しい焼き鳥を願えば、タレでも塩でもワサビでもあなた好みの味付けの焼き鳥を食べられます。そして、麻薬や煙草、酒なども望むがままです。」
「自由か。」
臭く濁った緩んだ息を鼻から吹き出し、口内の汚物をペッペと飛ばしながらアキラはそう思った。
「あなたは今その中に居るのです。」
一瞬の返す刀で声はまた来る。
「この声の主は俺の考えている事まで分かるらしい。」
「あなたが望めば何なりと。」
アキラはここでようやく初めて声の主の存在を意識し、その声の存在に肉声を差し出した。
「ここはどこなんだ?」
だが、出したつもりの声に対する返答はまるで無い。もう一度、「それで一体ここはどこなんですか?」と話しかけたが、やはり声の主からの反応はまだ何も聞こえては来ない。
「大きな声を出せていないのは自分でも分かっている。だが顎や耳たぶの付け根の辺りに音の響きの感触はあるから、声を出せていない訳では絶対に無いんだ。」

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