週報:a-choと京都と半生と

本当なら「2024年買ってよかったもの!」とかそういう振り返るような日記を書こうと思っていたんだけれども、今年にあった良いことも悪いことも全部忘れてしまった。

a-choが閉店するからだ。


a-choがいつから始まったゲームセンターなのかは知らない。しかし、僕にとっての京都はa-choから始まったと言って間違いない。

初めて行ったのは、修学旅行のときだった。自由行動時間で立ち寄って、薄暗い空間の中で、学生も大人も熱心にゲームをしている異様な空間。その雰囲気に大きく惹かれた。なんで大人が格ゲーで叫んでるんだ。

北海道の田舎にこのような家でも学校でも職場でもないような場所は、ほぼ存在しない。いや、知らないだけであるのかもしれないが運転ができない限りはアクセスはできないし、アクセスできないのなら無いのと同じだ。だから僕にとってのサードプレイス的なものの原風景がa-choだった。北海道出身である自分が東京の大学ではなく京都の大学を志望したのは(さすがにそれだけではないが)どこかでa-choの印象を引きずっていたのはあると思う。

受験で京都に来たときも、一通り試験が終わった夕方にa-choに行ったのを覚えている。大学生になったらきっとここに通うことになる。マーキングじゃないけど、長年お世話になるであろう筐体に顔見せしておくことは悪くない。手ごたえ的にもまぁ受かったんじゃないかと思ってたので、それはそれは気分よく9個のデカいボタンを叩いた。確かゲン担ぎにトゥイ―ポップ(777・スリースタースリーセブン)をやった。

まぁ、結果は落ちてたんだけど。そのようにして札幌での浪人時代が始まる。


同じ北海道でも札幌だけは様々な水準が違う。札幌の予備校の寮には北海道の各所から様々な人が集まっている。初めての都市生活に魅せられてまったく堕落してしまう人も少なくはなかった。

当時の自分はそういった人を下に見ていた。運良く親に浪人を許容できる経済力があり、さらに運良くそこに甘んじさせてもらえるだけの信頼値があっただけのことだ。そういう意識だったので、浪人生活としてはかなり模範的な生活をしていたと思う。浪人に模範も何も無い、という話はもちろんあるのだが。

浪人中の一年間は必ず朝6時に起きて夜10時には寝た。もともと寝るのが下手で夜型の傾向があったので辛かったけど、世の中の試験は大体朝9時から始まってしまう。一年後に控えている受験だって朝9時から始まるわけで、そこを目指して少しでも体質をチューニングしようとした形だった。

一日の授業全部が終わるのは18時ぐらいだった気がする。寮に帰って夕食を食べると19時。風呂に入ったら20時。そこから寮の自習室で21時半まで復習。そして22時には寝る。

今振り返ってみてもかなりストイックだったと思う。今の自分はのんべんだらりと過ごしているが、何か目的がはっきりしたならこの時と同様の生活をすればなんとかなると思っている節は否めない。明日から本気出す。

とはいえ、24時間365日まるっきり受験モードだったわけではない。どうしても午後2コマ目だけ空いてしまう、みたいなことはあった。そこも受験勉強で埋めることもできたが、そこまで詰め込むのは逆に良くないと思った。

ではどうしたか。ゲーセンに行ったのであった。今は札幌西口GiGOと改名しているが、札幌マキシムである。

マキシムは札幌駅西口の高架下に入っているゲームセンター。日中は日の光が入って比較的明るいが、物理的な明るさとは別にどこか薄暗い熱っぽさを感じるゲームセンターで、a-choに通ずる雰囲気がある。僕のようなゲーマー浪人、あるいはゲーマー大学生のたまり場である。

初めて弐寺を触ったのはこのマキシムだった。マキシムで知り合った音ゲーマーと、会話の拍子で「皿無いならいけんじゃね?」で『大犬のワルツ』ハイパーを触り、ボコボコにされた。

そういうわけで週に一回、1時間程度はゲーセンに通った。これが何よりの息抜きになり、厳しい浪人時代を乗り越える糧になっていたし、京都での大学生活に思いを馳せるカンフル剤にもなってたと思う。

「受かったらこのマキシムみたいなa-choにいくらでも通える!」


そのような経緯があって合格し、晴れて京都での生活が始まった。大学での友人の一部も音ゲーにハマってくれたのもあって、自分のゲーセン通いはより加速した。

国内外問わず観光地として名高い京都に住まうわけで、金閣寺も清水寺も銀閣寺も龍安寺もなんもかんもチャリを漕げばで観に行けるようになったわけである。そんな中、僕が毎日通ったのはa-choだった。

なにが鹿苑寺だ。こっちはネオ・アミューズメント・スペースだぞ。

当時は音ゲー全盛期とも言える時代で、ポップンと弐寺とDDRはもちろん、リフレクにユビートと、既存機種だけでも十分触り切れないぐらいだった。ダンエボやビートストリート等も稼働したし、後のヒットタイトルとなるSDVXも始まった。ダメ元で応募したアピカで採用を貰っちゃったりしたもんだからより一層に大ハマりしたのであった。

そうこうするうちに留年をした。大学よりa-choに通っていたのだから当然である。のちに退学をした。退学をしたのちに就職をした、就職をした先でうつ病になった。フリーターになった。バイトしてたら本社の人に目が留まって再就職できた。コロナ禍が来た。コロナ禍で業務の内容が大きく変わり、うつが再発して無職になった。コロナ禍だってのに半年ぐらいフラフラした。ダメ元でリモートで再就職応募したら受かった。今に至る。

面倒なので一段落にまとめてしまったが、これで約10年経っている。そしてその10年間ずっとa-choに通ってきた。大学生時代は毎日通ったのがピークで、社会人になっても週一で通った。特に他の客と交流するようなことはなかったけど、仕事でも家でもない場所で同じ趣味を楽しんでいる空間は心地良かった。

他にやること無かったのかと言われたら、ゲームをやるため生きてきた。ゲームが出来たら何になるのかと言われたら、何の役にも立たない。だが、生きる希望が湧いてくるのだ。


そのa-choが、無くなる。言葉が無い。

確かにコロナ禍以降、全国的にゲームセンターの客足が遠のいたのは周知だ。複数筐体が減っていったし、唐揚げのキッチンも閉鎖になった。それでも支援金等もあって乗り越えてくれたし、やや収まった今までなんとか残ってきた(そもそも母体が1階のパチンコ店なので安泰してると思ってた)。

それに僕は音ゲー村の民だけど、a-choが有名なのは格ゲーの聖地としてだ。スト6を中心にした格ゲーの盛り上がりが凄まじいし、きっとこれから大会が増えたりで盛り上がるんじゃないかと期待していたところだった。実際、アーケードのスト6は結構盛り上がってたのも見かけてたし……。

重ね重ね言葉が無い。

幸い、まだ閉店まで間がある。通える範囲で通うしかないのだが、閉店した後は本当にどうしよう。キタバチもWILLもヤギ商店もゲーパニも閉まってしまった。どこで生きる希望を調達したらいいんだろうか。

ままならないなぁ。

期せずして長期的な問題と向き合う必要が出てきた。引越しとか転職とか。嫌だなぁ。面倒臭い。

そんなこんなで2024年は終わり。お疲れ様でした。来年もよろしくお願いします。

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