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腹が減っては戦はできぬ

表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬/
若林正恭


私たちは何に競争させられているのだろう。

先日、電車を待っていた時。電車が到着してさあ乗ろうとした際、並んでいた列に一人の女の子が強引に割り入った。その後彼女はしっかり座席を勝ち取り、数3・Cと書かれたテキストを出して勉強をし始めた。
私の勝手なイメージだけど、こういうことをするのはご年配の人っていうイメージが強くて(大変申し訳ない)、なるほどこういうタイプもあるのねという感想を持った。

自分の高校生の頃を思い出す。自称進学校に通っていた私は毎日競争させられていたように思う。競争「していた」じゃない、「させられていた」。毎週英語のテストの結果を1番から最終番まで名前付きで張り出される、数学のクラスは試験ごとに成績が上中下のクラスが入れ替わる、などなどなど。
その流れにうまく乗れず、大学受験失敗というレッテルを貼られた私に、同級生の人間関係的にも成績的にもヒエラレルキーが上の子から、嫌味付きの年賀状を送られたことは痛い思い出である。(これまで一度も年賀状のやりとりなんてなかったのに。ていうか私の住所をどこから知ったんだ)
大学、学部に入ってからは就職先のステータスで張り合う雰囲気になっていた。この戦いでは、私は大学院進学組ということで免除されるかと思ったけど、他大学に進むと言うこともあり、どこに行くの?学科は?と同級生に根掘り葉掘り聞かれたことも記憶に新しい。

新自由主義とか資本主義とか、そういった言葉の定義を私はよくわかっていないので、若林さんのように理路整然とした文章にはできない。
私のぼやぼやした頭で思うことは、世の中競争社会なので競争から逃げるのは渋々諦めることにして。その中でも、自分が大事にしたい軸を強く柔らかく保ち続けたいということ。どんなに、負け犬や惨めねと言われるレッテルを貼られても。

椅子を勝ち取り、勉強に励む彼女に問いたい。成績以上に、もっと自分が自分として大事にしたいことはないかい。

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