ふと差し込んだ一筋の光
この世に生を受けた瞬間から、私達はそれぞれの歴史を刻む。過酷と思える人生も、自由と思える人生も、それぞれに主人公がいて、それぞれに関わり合い、それぞれに何かしら影響を与え合って生きていく。
ふと、自分という人間について考えてみた。何を思い、何を感じ、何を好んで、何を嫌うのか……。分かっているようで、分かっていないこともある。考えるにあたり、年代ごとに様々な出来事や感じたこと、深くかかわってくださった方々などを書き出してみた。
すると見えてくることがある。関わる人物が両親・兄弟から幼馴染、クラスメイト、先生、チームメイト……というように広がっていくのだ。当たり前のことだが、実に感慨深いことでもある。両親から受け継いだ価値観や思考の答え合わせをするかのように、どんどん世界を広げていく。もっと知りたい、もっと分かりたいと、己の欲するがままに行動範囲を広げ、交友関係を広げていく。
時として、自分の信じていた考え方が打ちのめされることがある。とても苦しい瞬間だ。自分を全否定されたかのように感じられ、この世の終わりのように思ったこともある。時には、怒りを覚えることもあった。
しかし、私には途方もなく疲れた心を癒してくれる「思い出」がいくつもあった。大好きなのに大嫌いで、でも大好きだった父と共に見た景色の数々。
海水浴へ出かけた時に見た、海の向こうの虹の架け橋。
一緒に歌いながら眺めた荒川の夕焼け。
ベランダの手すりに並べた雪うさぎと雪だるま。
支えられながら登って眺めた満開の桜。
「思い出」を挙げればきりがない。それは、同時に父が私に残してくれた「ゆたかさ」なのだと感じられてならない。どんなに辛い時も、どんなに苦しい時も、幼いころのふとした「思い出」が、断片的に蘇る「父と見た景色」「美しいと感じた光景」が、私をどん底から救ってくれていたことに気が付く。
私が思う「ゆたかさ」とは、お金で買えるような「物」ではない。ずっと昔、自分が忘れていたころに触れた人やもの。自分が「幸せだ」と感じた瞬間そのものこそが「ゆたかさ」であり、それをたくさん持っている人が「ゆたかな人」なのだと思う。
そして今、母となり、気になっていることがある。
父からもらった「ゆたかさ」を、私は子ども達に与えられているのだろうか。子ども達が途方もない絶望の淵に立たされた時、ふと差し込む一筋の光を与えられているのだろうか。
だから今、願うことはただ一つ。
どうか自分が「幸せだ」と心揺さぶられる瞬間を大切に、「今」という時を生きてほしい。そして、自分の中にたくさんの「ゆたかさ」を生み出し、どうか力強く生きて行ってほしい。
私の中に、たくさんの「ゆたかさ」を残してくれた父に、感謝を伝えたい。ありがとう。
もしもあなたの琴線に触れることがあれば、ぜひサポートをお願いいたします(*^^*)将来の夢への資金として、大切に使わせていただきます。