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2024/9/8(日)の宿題:言葉にする難しさ
『今日の宿題』(Rethink Books編、NUMABOOKS)に毎日取り組んでみる50日目。本日は岡崎祥久さんからの出題。
①先日、棚ぼたで一千万円手に入れた。
最近、二十一歳年下の裏恋人ができた。
死の間際、母は私と目を合わせたが無言だった。
サイコロで三十回連続して3が出た。
口をへの字にまげた初老の男が地下鉄のホームで車椅子を押していた。
夜道で放屁したら後ろに人がいた。
出まかせの嘘と、ただの事実、語るための言葉は違いますか?
②まるっきり荒唐無稽な話をしたつもりでも、身のまわりの事実から離れられないというのに、事実をありのまま伝えようとすると、次第に本当のことから離れていく。
どういうことなのでしょう?
難しいなー! どう捉えていいか、実は数日間悩んでいる宿題です。
①を読んで考える中で、『ハンチバック』(市川沙央)が文學界新人賞を受賞したときの村田沙耶香さんの選評(だったと思う、その雑誌が今手元にないのでもしかしたら違っているかもしれない……)に書かれた言葉を思い出した。
『ハンチバック』は、コタツ記事のパート、重度障害をもつ主人公・釈華のパート、最後の風俗嬢の語りのパートで構成される。選評は、そのパートのどれもが同等の言葉であることを意識させられた、というような内容だったと思う(自信がない……)。
この本の最初と最後はかなり創作的な語り口だと感じる。創作のための嘘を語る言葉。
それに対して中間の釈華のパートは、創作であるとはいえ、作者の市川さんの状況と重なる部分もあるためか、とても生々しく描かれる。部分的に事実を語る言葉。
しかしどちらも同じ言葉なのだ。そんなことに、この本を読んで、そして選評を読んで気がついた。あまりにも当たり前で、知っているはずなのに、指摘されないと思い出せない。
②については、以下のノートで書いていたことが近いのかなあ。
“noteを読むことがおもしろくて、でもどうしてみんなそんなに自分が思っていることを書き出すのが上手なんだろうと怖くなる。私は文章にするのが苦手で、思っていることを紙に書こうとすれば、あるいはPCに打ち込もうとすれば、その端から取りこぼしてしまって本当に書きたいものはどこかに逃げてしまう。今もそう、この瞬間もその繰り返し。”
言葉にした瞬間、それは頭の中の事実から離れて一歩踏み出すということになる。だから言葉にすればするほど、どんどん離れてしまう。
このノートを書いていても、ずーっとそうなのだ。一行だって私の思い通りにならない。言葉を選んでいくたびに、頭の中の事実と離れる。
noteを書いている人でそんな感覚を抱いている人はどれくらいいるんだろうか。みんなスラスラ書いているように見える。その人の頭の中はわからないから、読んでいる私にとっては、考えていることが的確に文章に表れているんだろうなと思う。
でもほんとは違うのかな。皆同じ思いを抱いているのであれば心強い。