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2025/1/25(土)の宿題:全部自分のためにする

 だいぶ間が開きまして、 『今日の宿題』(Rethink Books編、NUMABOOKS)に毎日取り組んでみる74日目。本日は林家彦いちさんからの出題で、「あるある話の逆のなしなし噺」について書く。

 どんなことを話したとしても、私の持つ全ての経験や感覚や感情は私固有のものではなく、どこかから影響を受けたものであったりありきたりなものと言えるんじゃないかしらと思っている。難しいな。

 ところで、最近たまごっちを育て始めた。

 子供の頃はあらゆるゲームが禁止されていたので、当時大ブームだったたまごっちが欲しいと親に言っても、もちろん買ってもらえなかった。幼い私は、まあそうなるよな、と諦め、たまごっちが欲しい気持ちをなかったことにした。執着を捨てた方が楽だと思っていたから。
 そのはずだったが、たまごっちをしつこくねだった妹には、その冬サンタさんがたまごっちを持ってきてくれた。衝撃だった。今まで諦めて執着を捨ててきたすべてのことが無意味だったように思えた。でもサンタさんが持ってきてくれたものだから、誰も責めようがなかった。
 それからは、大喜びでたまごっちの世話をする妹に少しだけ借りて遊ばせてもらった。嬉しかった。特に好きだったのはふらわっちだった。

あなたはふらわっちを知っていますか?



 いつしか妹のたまごっちは電池切れになった。その頃にはもう姉妹のたまごっち熱は冷めてしまって、電池を交換する日を待たずに引き出しの奥に仕舞い込まれた。ゲームってそんなものだろうか。飽きてしまって放置する、これはあるある話?

 さて、件の電池切れのたまごっちは、20年ぶりに妹の引き出しから発掘された。そして、そのときたまたまそのサイズの電池があったことから、20年越しに妹の手によって電池交換が行われたのである。
 長らく保管されていたたまごっちは、なんと問題なく起動し、息を吹き返した!
 妹は懐かしいたまごっちをある程度育てたものの、日々の忙しさからふとした瞬間に死なせてしまい、お墓の画面のまま再び実家に放置した。

 そのたまごっちは今、私が引き取って大事に育てている。買ってもらえなくて悲しかった子供の頃の私が喜んでいるのを感じる。

 2025年の今、2004年のたまごっちを育てながらインナーチャイルドを癒している人間はなかなかいないのではないでしょうか。これをなしなし噺としてもよろしいでしょうか。



 10月上旬からすごく調子を崩してしまい、その後も調子の良し悪しがまだらで、なかなか文章を書いて公開する気になれずに「今日の宿題」が滞っていた。これからも毎日書けるかはわからないけれど、文章の練習のために、自分との約束のために続けたいと思います。こんどはぼちぼちで。

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