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2024/9/1(日)の宿題:全ては無意味だし無駄なことはひとつもないし

『今日の宿題』(Rethink Books編、NUMABOOKS)に毎日取り組んでみる43日目。本日は中村和恵さんからの出題で、一部引用する。

なんのためにもならない時間は無意味なんだろうか
なんの賞賛も得ない努力は無駄なんだろうか
ただ生きて死ぬ生は意味がないんだろうか

『今日の宿題』Rethink Books編,93頁


“私は無駄という言葉が大嫌いだ。無駄が嫌いなのではなくて、無駄扱いすることが嫌い。一見無駄に見えても、その回り道はそのとき必要だったり、回り道のおかげで思わぬ学びがあったりする。全ての経験はひとときじぶんのなかに留まり、澱を残して流れていく。その澱が私を形成するのだ、と信じている。”

 上のnoteに書いたように、私は無駄扱いすることが嫌いだ。どんなに無駄そうなことでも、何かに対しては影響を与えるんだし。

 だけど同時に、全てに意味なんかないよな〜と思っている。無駄なものはひとつもないと考えることと、全てに意味はないと考えることは、矛盾せずに私の中に存在している。

 全てに意味はないと考えるようになったのは、大学生の頃だった。
 自然人類学の授業を受けていたときだった。自然人類学ではサルからヒトへと進化する過程の生物学的変化を主に学んだ。教授はいい具合に力の抜けたおじいちゃん先生で、飼い犬のことを「わんころ」と呼んでいたのが印象的だった。
 その教授が言ったことが衝撃的だったのだ。もう何年も前のことで記憶が曖昧なのと、教授の発言内容の真偽はよくわからないことを断っておく。

 たしか、地球温暖化について話す中での発言だった。その頃はSDGsがけっこうメディアに取り上げられるようになった時期で、何かにつけて環境への配慮を、と発信されていたのだと思う。

「人類が生まれるずっと前から地球は氷期と間氷期を繰り返してるんだから、気温が上がるのは当たり前。人類が地球のために何かして影響を及ぼすことなんてできないし、そうしようとするのはおこがましいんだよ」

 こんなニュアンスのことを言っていたのだ。小学生の頃からリデュース・リユース・リサイクルを習い、環境に配慮することが大事と教え込まれていた私には、その発言は衝撃的だった。
 しかしすごく腑に落ちたのだ。人類が二足歩行を始めるのにもすごく時間がかかった。生き物が形を変えることさえ途方もない時間がかかるのに、人間が何十年かそこらで地球に影響を及ぼすことなんて本来できないのではないか?

 だから環境に配慮などしなくていい、ということが言いたいわけじゃない。環境汚染というのは間違いなくあると思うし、人類が快適に過ごせる時間を少しでも伸ばすためには工夫が必要だ。
 でも、人類がいなくても地球の気温は上昇して、いつかそのうちがくっと下がって氷期に入る。その変化に対して人類は無力だ。そのとき人類が残っていてもいなくても起こる変化であり、何十万年も前から決定されていることなのだ。その壮大さに気づかされる発言だった。

 私はヒトという種の一個体でしかなく、この世に生まれた意味はヒトという種の存続のためでしかない。生まれた理由や生きる意味はないのだ。私は現象としてここに在るだけ。
 そう考えたら、何のために生まれて何をして生きるのか、みたいなことで悩まなくなった。私は生き物としてただここにあり、自分を生かすために生きていけばいいんだ。

 だからね、全ては無意味だし、無駄なことはないんじゃないかと思うんですよ。そう思うことでふっと楽になれる部分がある。あくまで私は、ということです。うまく説明できてる気はしないし、これが矛盾しないことの説明はできてないかもしれないけど、とにかく。


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