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2024/8/28(水)の宿題:誰かが見ている世界
『今日の宿題』(Rethink Books編、NUMABOOKS)に毎日取り組んでみる39日目。本日は柴崎友香さんからの出題で、「誰かが見ている世界を見てみる手段」について書く。
私が見ている世界
私の網膜も角膜も私のもので、それを通して見ているものの色や印象は私固有のものかもしれない。色にもいろんなイメージを抱いていて、ピンクはやさしい、青はさわやか、とかは私が持つ独特のイメージかもしれない。
知識とか体験、記憶も私だけが持っていて、そういうものと紐づけながら世界を見るから、あらゆるものの捉え方も私固有のものだ。
同じ風景だとしても、私と他の誰かで受け取り方が違う。私と他の誰かが見ている世界は違うものになる。
だから「誰かが見ている世界を見てみる」なんて不可能で、そんな手段もないのではないだろうか。
その中で唯一、一人称の小説を読むことだけは「誰かが見ている世界を見てみる」ことになるような気がする。
文字を目で追っているだけだから、物理的に目で見ることはできない。しかし一人称の小説では、「わたし」とか「僕」が目で見て体験し、考えていることを文字に書き表すので、誰かが見ている世界を追体験することに近いと思う。
これは映画や漫画ではできないことだ。映画や漫画は常に第三者視点(神の視点)で観察されて物事が進んでいくため、誰かが見ている世界という言い方はできないだろう。
しかし、一人称小説も、それを読む他人同士ではその小説世界のイメージが変わっていて、完全に同じ世界を体験しているわけではない。
私はこの事実に気づいたとき、とてもびっくりした。自分が読んでイメージしている小説の世界と、誰かが読んでイメージしている小説の世界が全然違うかもしれないということ。描写されないものの色や形はおろか、描写されたものでさえも一致しているはずがないのだ。主人公も全く違う顔をしているだろう。
冷静に考えれば当たり前のことなのだが、それはとてもショックな気付きだった。同じ本を読んでいる人に、勝手に連帯感というか、同じ世界を共有する仲間意識めいたものを抱いていたから。そして寂しかった。私たちは同じ小説という窓から別の世界を覗いている。
やはり結局、「誰かが見ている世界を見てみる」なんて無理なのだろうか。できるなら私も、他の人が見ている世界をできるだけたくさん知りたい。でもできない。だからそれに一番近そうな本を読むということをできるだけやらなきゃな、と思う。