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2024/8/30(金)の宿題:遺影

 『今日の宿題』(Rethink Books編、NUMABOOKS)に毎日取り組んでみる41日目。本日は新井卓さんからの出題で、「一生のうち一枚しか写真を撮れないとしたら何を撮るか」について書く。

忘れないためのよすがとして

 気軽に写真を撮る。iPhoneのカメラはどんどん進化しているらしい。一枚写真を撮れば、ズームアップして肉眼で見るよりも細部をよく見ることができる。明るさも暗さも色もそこに写っているものも操作できる。外食するとき、友人といるとき、空がきれいだったとき、気軽にiPhoneを出して写真を撮り、少しばかり補正や加工や切り取りをしてSNSにアップする。

 もし一生に一度しか写真を撮れないとしたら、何を撮るんだろう。

 一番楽しい一瞬を、あるいは一番美しい一瞬を撮ろうと思って、今じゃないかもしれない、もっと最高の瞬間があるかもしれないとシャッターを切る決心がつかないうちに、気づいたら一生を終えているかもしれない。

 遺影となる自分の写真を一枚撮っておくのはありかもしれない。しかし、いつ死ぬかはわからない。明日死ぬかもしれないし、100歳まで生きるかもしれない。もし明日の死に備えて今この瞬間に遺影を撮ったとして、死んだのが100歳のおばあちゃんになってからだったら? そのとき葬式に参列してくれる人は、20代の若すぎる写真を「私の遺影」として認識できない可能性がある。

 遺影、と突然浮かんだのは、大好きだったヌードモデルの兎丸愛美さんがモデルを始めたきっかけが「裸の遺影」の撮影だったということをずっと覚えていたからだ。彼女はもう表舞台から姿を消してしまったけど、彼女の存在は私の中でずっとなくならない。写真を撮られるたびに遺影のことを思い出す。不本意な表情の写真が遺影として掲げられたら恥ずかしいから、1年おきくらいに自分で遺影の写真はこれを使ってくださいと提示しておくべきかな、とも思う。


 まあ、遺影なんてわざわざ用意しなくてもいいかもしれないな。なぜなら、私が死んだときには知り合い各々がそれぞれにとって印象深い私の姿を思い浮かべているだろうから。その人の記憶の中の私は、実際の写真に写った私より朧気で、実際より美しいフィルターがかかっているに違いない。だからその人の頭に浮かぶままにしておいた方が、写真で提示するよりずっと綺麗かもしれないからだ。

(ここで唐突に好きな曲を。「あなただけが綺麗と思ってくれたならいいの」の歌詞はなぜか泣けてしまう。吉澤嘉代子と付き合っていたときの「無い記憶」が蘇ってくる曲。)

 じゃあ一生のうちどんな一枚を撮るかというと、私は両親の写真を撮っておきたいな。

 祖父母は残念ながらみな亡くなってしまった。大好きな祖母が亡くなったときは、私の心に大きな穴が開いてしまったような気がした。
 そんなつらいことでも、つらいからこそかもしれないが、だんだん忘れてしまう。細かいやりとり、出来事、服装、仕草。そしていつかは声や顔も、ぼんやりともやに包まれて少しずつ遠くなってしまうみたいに忘れていってしまうかもしれない。
 それが嫌だ。だから祖父母を思い出すために、お墓参りをしたり、写真を見返したりする。こんなふうに笑っていたな、こんな帽子をかぶっていたなと思い出す。
 両親もおそらく、私より先に一生を終えるだろう。その時に何度も見返して思い出せるように、忘れないために面影に紐をつけておくみたいに、写真を撮っておきたい。

 写真ついでに好きな女性たちのことを話す回になってしまった。今度実家に帰ったら、両親の写真を撮っておこうかな。

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