2024/8/16(金)の宿題:信じることも疑うことも
『今日の宿題』(Rethink Books編、NUMABOOKS)に毎日取り組んでみる27日目。本日は若松英輔さんからの出題で、「信じることと疑うこと」について書く。今回は全文を引用します。
信じることも疑うことも
信じること、疑うこと、それが一つの営為の二つの呼び名だとしたら、その営みの本質は「不安を覆い隠す」ということなのではないだろうか。
何かについてきちんと知れば、もう信じたり疑ったりする必要はない。知ることとは事実を受け取ることだ。何かを理解するための要素を充分に受け取れば、それに対して不安を抱くことはなくなる。
問題は、理解するための要素を受け取ることができないときだ。受け取るものがないとき、人は不安になる。得体のしれないそれをどのように判断していいかわからない。その時に人がとる行動パターンが「信じる」と「疑う」なのではないだろうか。
例えば不正の嫌疑をかけられたAという人物がいる。Aが本当に不正を行ったかはわからない。判断するための情報は周囲に与えられていない。
このとき、Aにプラスの感情を抱いている人は、Aを「信じたい」と思うだろう。情報は少なく、もはや信じることしかできない。自分の知っているAを信じたい。
一方で、Aにマイナスの感情を抱いている人は、Aを「疑いたい」だろう。真偽のほどはわからないけれど、あいつは疑わしい。
このときのプラスの感情とマイナスの感情は簡単にひっくり返る。信じていたのに裏切られた。疑っていたが案外悪い奴じゃなかった。
そう考えると、信じることも疑うこともすごく自分勝手な営みだと思う。信じる/疑う対象の本人はどうすることもできない。私がAを信じるのも疑うのも私の勝手、Aがどんなことをしようが操作できるものではない。私は勝手にAに幻滅したり、私の中のAの株があがったりする。
できれば信じることにも疑うことにも振り回されず、淡々と物事を受け取りたい。受け取るものがないときはただ待ちたい。
でもそれは難しい。私は不安になったら勝手に信じたり疑ったりし始める。それは止められない。
だからあきらめようと思う。私はどうしても自分勝手に信じたり疑ったりしてしまう。ただ、それを信じたり疑ったりする対象や、周囲の人に押し付けるのだけはやめておきたい。それをし始めたら、それはもう信じる/疑うという営みとはまた違う、醜悪な営みになってしまう気がするから。
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