『家族を想うとき』ケン・ローチ
ありきたりであいまいな邦題にあえて乗っかるとするならば、「家族を想うとき」とは、「家族」(私的空間)が外部から脅かされるときである。「外部」とはグローバリズムが侵食していく空間であることは言うまでもないが、これを「社会」というのか「公的空間」というのか「公共」というのか「ストリート」というのか、限定して「職場」というのかなどなど色々ある。
「職場」とは労働する身体にとって公的と私的が混交した場であろう。その双方の「悪いとこ取り」が余儀なくされる現象を活写しているのがこの映画であるともいえる。
フランチャイズの宅配ドライバーとして働くターナー家の父親リッキー(クリス・ヒッチェン)が車に荷物を積み込み出発するための準備に忙しいステーション。リッキーの携帯電話に家族の危急を知らせる一報が入る。一刻も早く駆けつけたい気持ちと仕事に穴を空けることは許されない目先の現実の相克に固まってしまうリッキーに、自身も忙しく立ち回りながらも「早く行ってやれよ」と声をかける同僚の男性。
パートタイムの介護福祉士として働く妻で母親のアビーがバス停留所で時間を惜しむように携帯電話で職場と話をしている。予定外の仕事の依頼に対し、家族の時間を大切にしたい気持ちと、ひとりひとりの利用者の顔を思い浮かべ介護職の責任を全うするべきだという職業倫理が矛盾し、パニックから声を荒げるアビーに対し、隣でバス待ちをして座っていた年配の女性がさりげなく声をかける。
映画全体の絶望的なトーンの中で、これらの声かけは無力に近い。しかしながら、だからこそ、すがりつくように観る者に記憶される。原題 Sorry We Missed You のWeはこれら声かけをする外部の人たちであり、「家族」という抽象ではない。Youは公的と私的が混交した場において半/反孤立化した個人を指す。
コミュニケーションがままならないターナー家に、リッキーが、アビーが、息子のセブが、娘のライザ・ジェーンが帰宅すると最初にするのが、玄関のおきまりの受け皿に鍵を置く動作だ。かろうじて家族の成員がお互いをmiss youするための受け皿は、ひっそりとそこにただある。
『家族を想うとき』
監督:ケン・ローチ
出演:クリス・ヒッチェン/デビー・ハニーウッド/リス・ストーン/ライザ・ジェーン
劇場:TOHOシネマズ川崎
2019年作品
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