『プリズン・サークル』坂上香
閉塞的なモノローグ(独語)から解放的なダイアログ(対話)へと。水平方向のコミュニケーションを志向することに価値を見出そうとしているここ数年の自分がいる。そんな安易な思考にこの映画は待ったをかける。
公式サイトにあるイントロダクションは次のように書かれている。
「島根あさひ社会復帰促進センター」は、官民協働の新しい刑務所。警備や職業訓練などを民間が担い、ドアの施錠や食事の搬送は自動化され、ICタグとCCTVカメラが受刑者を監視する。しかし、その真の新しさは、受刑者同士の対話をベースに犯罪の原因を探り、更生を促す「TC(Therapeutic Community=回復共同体)」というプログラムを日本で唯一導入している点にある。なぜ自分は今ここにいるのか、いかにして償うのか? 彼らが向き合うのは、犯した罪だけではない。幼い頃に経験した貧困、いじめ、虐待、差別などの記憶。痛み、悲しみ、恥辱や怒りといった感情。そして、それらを表現する言葉を獲得していく…。
確かに「対話をベースに」「言葉を獲得していく」プロセスがカメラによって捉えらえている。徹底してプロセスだけが映し出されているといってよい。ユニットメンバー全員を前に一人で語る/聞く、四、五人のグループで語る/聞く、一対一で語る/聞く。それぞれの形式によって、目的や効果が異なりはしても。
だが、彼らの多くがその「対話」の場で発見するのは、「自分はモノローグができない」「モノローグ(さえ)してこなかった」という事実である。多くの場合、幼少時の過酷な体験がそれを遮ってきたのだ。もしその時、内省していたら、精神を病むことになっていたかもしれない。そうならないために、自らの感情の大事な部分を閉ざしたのだ。犯した暴力や法に触れる行為は、その代償行為であった。
彼らが語るあいだ、聞き役になっている他のメンバーやセラピストは、彼がモノローグできるようになるための補助役である。他のメンバーは、自分が補助役を務めることで、自分の中に相手を発見し、相手に自分を見出すことに成功する。
つまり、「対話」というのは徹底した自己内対話ができることによって、初めてその可能性が見出される稀有な瞬間のことを指す。その真理を、この映画は見事なまでに表現している。
イントネーションから沖縄出身であることが想像されるがゆえに、「翔」という名の男性に注目してしまう。「良い死に方をしたい」自分と、それを相対化しているもう一人の自分。どちらか一方の自分が目の前の空席に座るもう一人に語りかけるワーク。その二役を切り返す動作を繰り返す彼をカメラが背後から捉えるのは、彼を注意深く眼差し、距離を置き、タイミングを見計らいながら声をかけるセラピストの鋭利な表情である。この構図が映画的である。
TCのプログラムの期間を満了し、最後のインタビューを終えた彼はインタビュアーに向かって握手をしていいか尋ね、職員から制止され(接触は禁止されている)、「やっぱりダメか」と苦笑いする。そこにライフがある。握手は沖縄では挨拶がわりによくする。
『プリズン・サークル』
監督・制作・撮影・編集:坂上香
劇場:シアター・イメージフォーラム
2020年作品
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