相手によりそう参与のしかた
ゴルフのFarmers insurance openを見ていると、「バスケのKobe Bryantがヘリコプター事故でなくなった」というニュースが耳に入って来た。
私「コービが亡くなったって」
母「バスケの?昔カード集めたり、(レプリカ)ユニフォーム買ってたあの人だっけ」
父「あぁ、NBAの選手な」
ここで母と父
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一般的に「父と母」という言い方がデフォルトであるため違和感を感じるだろうが、私にとってはこれがそもそもデフォルト。アイデンティティという観点から、前者が欠けると今の私は存在しえないが、後者が欠けてもその代わりになれる他の人物も十分にありえると思っている
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のコミュニケーション方法に注目すると、そこには根本的な違いが見える。
まず前者のフォーカスはどこにあるかと言うと、あくまで情報の提供者(私)にある。つまりその情報がどうしてその人にとって重要なのかを感じた(考えた)上での発話だと言える。そしてその目的は相手の思いに寄り添うことにある。
一方、後者のフォーカスは情報そのものにある。自分がその情報を持っていることを示すために会話に参与しているとも言え、聞いたものにはもちろん寄り添われた感覚は生まれない。あくまで自分本位で、自分のための参与なのである。
こうした発話は特にマッチョ(男性(的)、既得権益層、社会的地位の高さ・学歴の高さなどに強い意義を感じる、多くは50代以上)の人に多いが、そんな人たちは一度自らを省みて、本当に相手が自分とのコミュニケーションを享受しているか考え(内省、観察、反省し)てみると、避けられる熟年離婚もあるかもしれない。
意味のある(効果的な)コミュニケーションは、まず相手の情意・意図をを理解(しようと)することから始まる。それが「寄り添う」ことに繋がり、そこにはきっと信頼関係が生まれていくことだろう。