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連載小説|寒空の下(18)

 あと一週間働けば、母親と約束していた30万円を貯金することができるというところまできていた。それはつまり、正義を証明するための時間は余り残されていないということでもあった。だが、虫けらのような大学生が死ぬ気になったところで、一人の人間を変えることができるかどうかも分からない。ましてや数人の大人を説得し、自分の味方につけるなど夢のまた夢。

 ショッピングモールで働く警備員はますます仲が良くなり、俺のことを陰湿ないじめによって弾圧していた。トイレにいるときに電気を消されたり、控え室においてあったコンビニ弁当を捨てられたりもした。だからといって、落ち込んだりはしなかった。彼らが操作しているパソコンのデータを消したり、トイレの便器に小便を撒き散らしたりしたからそれでお相子だった。

 社会的弱者や変わり者といった人々を束になっていじめる人間が世の中に溢れかえっていることを知り、どこかやるせない気持ちでいた。大概はそういう卑怯な人間たちが上手く立ち回ってこの世の中を構成している。嘘をついて、騙して、汚い金を得て、競争で人をこけ落し、自分だけを守ろうとして生きている。笠原のように真っ直ぐ生きている人間はどこかで卑怯な人間たちの罠にかかり、追いやられている。

 それなのに、善良でもない卑怯な人間たちは偽善者を気取って「善良であれば人生は必ず上手くいく」と豪語している。自分たちは人を欺き、他人を貶めることで幸福を得ているというのにもかかわらず。人生で成功するには、競争で勝つためには、人助けなんてしている暇はそうそうない。俺もそういうつもりはなかったが、笠原がいなくなったことで自分の職を守ることができている。俺という人間だってああだこうだ言いながらも結局は人を踏み台にして生きている。そんな自分に猛烈な嫌悪感を抱いた。けれど、俺が生きてきた世の中はそんなことばかりで、俺の感覚も麻痺し始めているのかもしれない。

 人生そのものを何度もやめたくなった。今でもそうなることがあるから酒を飲んでいる。生きていけば必ず誰かと競争をしなくてはいけなくなり、その度にレールから蹴り落とさないといけなくなる。他人に不幸を負わせるか自分が背負うかになって、不幸を減らすことはできない。俺は自分たちがしてきたことを正しいものにしようとしていたが、そうすれば、今ショッピングモールを牛耳っている馬鹿共はまた路頭に迷うことになる。

 本質的に彼らを毛嫌いしているが、彼らがしているのと同じことを俺もまたやり返そうとしている。俺も奴らと大して変わらないのかもしれない。群れをなして、蹴落として、自分だけが気持ちよくなる。何をどうすればいいのか分かったものではなかった。ただ、俺は争うことに疲れていた。

 一週間ぶりの休みが訪れた。真っ青に晴れた三月の空の下、大学の図書館へと向かっていた。春休みの間に読もうと思っていた大量の文庫本を案外早く読み終わってしまったので、新しいものを借りにいく必要があった。背中に背負ったリュックはあまりに重く、底が下に垂れすぎてクロスバイクの後輪に当たりそうだった。

 あわよくば伸弘に会えるかもしれないという思いもあった。彼はどういうわけかキャンパス内でセックスすることを好んだ。前の彼女ともしていたから、今の彼女とだってしているにちがいない。人の少ない春休みのキャンパスとなればそういうことをしている可能性は高かった。しかし、俺はクロスバイクを漕ぐ道の途中で異変に気が付いた。華やかな着物を着て多少なりとも大人びて見える女たちと、入学式の時よりは老けたおかげで黒や紺のスーツがそれなりに板についている男たちが連れだって歩いていた。俺は卒業式の日に大学へとやって来てしまった。

 本来なら俺も卒業式に参加していたはずで、そこには知り合いの同級生が数多くいた。理恵も間違いなく来ているだろう。彼女は今朝会った時、着物姿だったので、俺は友達の結婚式にでもいくのだろうと勘違いしていた。どうして何も教えてくれなかったのだろうか。こんな場所に顔を出すということは自ら恥を晒しにいくようなものだ。みんな卒業も進路も決まり、海外旅行なんかに行ったりして浮かれている人間ばかりだ。それに反して、俺は留年が決まり存在しなかったはずの延長期間のため、華やかではない仕事をしながらせっせとお金を貯めている。

 その気になればアパートに引き返すこともできた。本の返却期限もまだ先で、そこまで急ぎの用事でもなかった。セックスをしにくるどころか、卒業式ともなれば、同じく留年の決まっている伸弘が来るはずもなかった。彼は俺とは比べものにならないくらい人の目を気にする。

 もうすでに大学の駐輪場が目に見えるところまで来ていた。明るい雰囲気に包まれた学生が目に飛び込んできた。惨めだった。だが、ここで引き返すのも嫌だった。アパートに帰ってしまえば自分が今までしてきたことを全て否定することになりかねないと思った。大学内ではどこの団体にも馴染めなかったし、有名にもなれなかった。しまいには留年までしてしまった。だが、俺なりに生きてきたのは確かだ。彼らとはたった二単位違うだけだ。俺はまだその二単位のおかげで大学と親の庇護下にいることができる。おかげで呑気に日向ぼっこしていられる。何も恥じることはないはずだ。意を決し、クロスバイクで駐輪場に滑り込み、人混みに紛れた。

 駐輪場からはちょっとした山のような斜面を貫く木製の階段が伸びており、そこから大学内に入ろうとした。ここは裏口のようなもので普段は利用する人がまばらなのだが、この日は階段の入口から出口までびっしり人が連なっていた。これだけ人がいればそうそう知り合いがいても気付かれることはないだろうと思っていたが、階段を登っていると俺の名前を呼ぶ声がした。

「たくちゃん!たくちゃんやろ?」

 気付かぬ振りをしてそのまま階段を登ろうとしたが、集団を前に大声を出した相手のことが不憫に思えた。人の流れに逆行し着物姿の女のところまで降り、手を取った。彼女は慣れない下駄履きのせいでどこか足下がおぼつかなかった。

「ありがとう」女は言った。
「あんまり大声で呼ぶなよ、恥ずかしいだろ?」
「ごめん」
「久しぶりだね、もう死ぬのはやめたの?」
「いつの話してんねん」
「こんな日に来るんじゃなかったよ」
「あれ?たくちゃんはまだ卒業じゃないん?」
「まだ社会人になりたくなくて」
「絶対うそやん」

 階段を登り終えたところで俺は彼女の手を離した。その手は温かく、関西のホテルで足をマッサージしてくれた時と変わらなかった。だが、彼女は艶やかな紅白の着物を着て、大学生活に終止符を打とうとしていた。ぶらぶらしている俺と違って彼女は卒業する。できれば知らないうちにどこかへ行ってくれればよかったのにと俺は思った。

 彼女とは付き合っていたわけではなかったが、一緒に旅行をしたり、勉強をしたり、彼女が精神を病んだときに側にいてあげたりした。彼女はいつの間にか元気になり、大学内で自分に合うコミュニティを見つけ、離れていった。彼女は理恵とちょっとした友達だったからたまに話を耳にすることはあったが、細かい事情までは知らなかった。

「理恵ちゃんとはうまくやってるんやろ?」
「それなりにね」
「ちゃんと優しくしてあげなあかんで」
「うん」
「うちもな、彼氏ができてん。まだ付き合って三ヶ月くらいやねんけど」
「年上?」
「何でそんなこと聞くん?」
「まあ、いいや。俺そろそろ行くわ」
「分かった。また会おうな」
「じゃあね」

 俺は右手を挙げて、彼女に背を向けた。彼女はあとからやって来た友達に「あの人だれなん?」と聞かれながら俺とは反対方向に歩き始めた。おそらく彼女と会うことはもう二度とないだろう。

 図書館のすぐ隣には式典を行なう時に使う巨大な講堂があり、人々はそこに向かってゆっくりと行進していた。俺はおのずとその流れに乗って歩くしかなかった。その道の脇には人がずらっと並んでおり「ご卒業おめでとうございます!」叫んでいた。わざと卒業生になりきって彼らに手を振ってみようとも思ったが、恥ずかしくなってやめた。結局、俺はポケットに手を突っ込み、背中を丸めて歩いた。

 人の流れからようやく逃れ、俺は図書館に辿り着いた。入口近くの受付に行くと、こけしのような顔をした女性が座っていた。俺がリュックから大量の文庫本を取り出すと、彼女は無表情のまま背表紙についているバーコードを機械で読み取った。ピッ、ピッ、ピッ。その音は吹き抜けになっている図書館のロビーにむなしく響いた。俺はどうして大学に来たのか未だに分からなかったし、仲間たちが卒業していく様子を目の当たりにしてもそれが意味のあることだとは思えなかった。

「全て返却でよろしかったですか?」
「はい、今日もまた新しいの借りていってもいいですか?」
「どうぞ」

つづく

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