ウィーンを歩く.ジュリー・デルピーを探して.
彼がリチャード・リンクレイターの「Before Sunrise(1995)」を見たのはこの旅(1992)から帰って数年後だから,このタイトルは完全に時間感覚を混乱させていることになるが,これ以上ウィーンについて相応しいタイトルは付けられそうにない.もし,あの映画を先に見ていたら,この旅はどうなっていたんだろうかと,時々思わないことはない.人生は常に起こったことと,起こったかもしれないことが存在して,どこかで折り合いをつけて日々に向き合うようなものだ.
彼は夜行列車でウィーンの駅に着くと,ガイドブックに書いてある情報を頼りにドミトリーを探した.だいたい値段が安くて良さそうで,立地もいいものを勘で選ぶわけだ.今回は,まるでどこかの収容所のような,大部屋に2段ベッドが30台ほど整然と並んでいる部屋に案内された.しかし,僅か1000円程度で泊まれるということだから良しとした.時に所持金をセーブすることは大事だった.宿を確保すると,彼はいつものように歩いて中心街に繰り出した.
当時の学生の夏休みは特に何も課せられるものがなく,これほど自由な時間は二度と訪れないだろうということは頭で理解していた.日本から遠く離れて完全に解き放たれている感覚があった.その気になれば完全な孤独も手に入る.今の若い人には想像つかないと思うがもちろん携帯電話などまだ普及していない時代である.公衆電話を使うことは出来るが,気安く連絡を取ることは出来ない世界だったのだ.だから,自分から連絡しようと働きかけない以外は,誰からも束縛されることがない.その気楽さは今ではもう失われてしまった(もちろん,今すぐ携帯電話を捨てて旅に出れば可能ではあるが,笑).日本語が聞こえてこない世界のどこかで,誰にも干渉されず,好きなだけ建築を見て回って,好きなだけ街をブラブラする.時にすれ違う人と言葉を交わし,お互いの今後の人生にエールを送りながら,そしてまた分かれる.
ローマで声をかけてくれたウィーンの女性に勧められたシュテファン大聖堂を見上げる.ゴシック様式の外観だが,屋根が複数の色の瓦タイルで飾られている.オーストリア・ハンガリー帝国の双頭の鷲,ウィーン市とオーストリアの紋章が描かれているが,どこかその幾何学模様がアラベスクを連想させた.当時,ウィーンから東の当時東欧と呼ばれていた国にはビザなしで入ることが出来なかったので,多くの日本人にとってはウィーンが自由に動ける東の限界だった.どこかもっと東の文化の影響が交じり合っている気がして,汽水域のような存在の国に興味が湧いた.リングと呼ばれる環状線が整備され,これまで訪れたどこの国や都市よりもオーガナイズされている.ある種テーマパークのようでもあるな,と彼は思った.
なにがそうさせたのかは分からないが,彼はあまり豪華な建築に興味がなく,宮廷建築のようなものに全く惹かれないタイプだった.ウィーンでも,多くの人が喜んで訪れる世界遺産のシェーンブルン宮殿も,しかたなくさっと見たものの,あまり心に訴えてくるものを感じなかった.むしろ,ウィーンの豪華絢爛な華やかさを「装飾は罪である」と断じたアドルフ・ロースの建築に惹かれたし,そのロースたち新世代の建築家を育成した(ロースは彼の門下生ではないのだが)近代建築の父,オットー・ワーグナーの郵便貯金局のインテリア空間に惹かれた.その意味では,セセッション館も,マジョリカハウスも,正直好みではなかったが,ウィーンという都市が持つそのような飽和したラグジュアリー感の中で,ロースのような建築家が生まれてきたのは必然なのかもしれないなと思った.ロースで無ければ,きっと他の人が似たようなことをしたのだろう.歴史とは,なんかそのような大きな流れなのだろうと思う.
一方で,当時は日本には欧米のポストモダン,さらにはデコンストラクティビズムという言葉がちらちら見られ始めていた時期で,ヨーロッパに行くなら歴史的な建築やモダニズムの名作だけでなく,最新の建築も見たらいいと話を聞いていた.そういえば,これまでロンドンでは現代建築をいくつか見たものの,ギリシャとイタリアでは古いものしか見なかったことに気付いた.ウィーンでは,ギュンター・ドメニクの銀行を見ることが出来た.しかし,この時代に盛えたポストモダンという動きも,彼にはそれほど魅力的に映らなかった.今になって見返すと,この建築はポストモダンの時代に生まれたバロック建築だということが分かる.ウィーンやドイツで,バロックの最晩年に異常に表現過多に陥っていく建築空間表現が見られるが,これはその系譜と見做すことが出来る.そうすると,模様や装飾を重んじるDNAがこの街には存在しているのかもしれないし,それは,シュテファン大聖堂を見て感じたような,東の影響があるのかもしれない.国境や言語が比較的明快な境界を持っているのに比べて,このような地続きの国々の視覚的な表象文化は境目が曖昧だ.建築というものが,単なる建物/ビルディングとしての文脈だけでなく,言語や文化,政治,思想などの混然一体となった世界の中でたまたまそこに産み落とされた創造だということが,いろんな国を回ってみるとなんとなく理解できてくる.
ひと通り,目的の建築を見た後,時間が余っていたので,夕方にプラーターと呼ばれる古い遊園地に足を運んでみた.ガイドブックには,ウィーン名物の場所のひとつだと書いてある.日本で言えばちょっと古びたテーマパークという趣のようだった.中でも,木製のキャビンを持つ観覧車が注目だと書いてある.ただ,誰かといれば話は別だが,一人で遊園地ではしゃぐ気持ちにもなれなかったので,彼はその観覧車の外観を眺め,写真を一枚撮り,折り返して街に戻った.
そして,数年後にあの映画を見るわけだ.若き日のイーサン・ホークと,ジュリー・デルピーがこの観覧車に乗って,ウィーンの街並みを見るシーンがある.夕暮れに染まるその景色を見て,ああ,乗っておけばよかった,といつも思う.
もちろん,その前に,ウィーンに向かう列車の中で,ジュリー・デルピーのような誰かと出会わなければならなかった,と,いつも思うのだ.(了)
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