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我が青春in戦後東京
昭和20年3月10日、130機という大編成のB29による大空襲で、東京の下町の大部分は、目も当てられぬ廃墟と化しました。
8月15日の終戦を経て、翌21年の夏に、私たち一家は、父親の転勤に伴って東京へ引っ越しました。
転居先は戦災を免れた山の手の杉並区だったから、住むことに関しては特に不自由はありませんでした。
ただ、人並みとまでは行かないまでも、食糧難は我が家でも経験しました。
「アラッ!お米が消えちゃってる!!」
朝、母の素っ頓狂な悲鳴が聞こえたのを覚えています。昔風の厨(くりや)というに相応しいような台所は戸外にあって、前夜からお釜の中に浸しておいたお米を持って行かれたのです。
教育制度の改革で、武蔵高等女学校2年に転校した私は、翌年には学区内の都立武蔵高等学校併設中学校と名称を変えた3年に進級しました。旧制からの学年は、高校への入試は免除されていたので、学科による入試の受験は、大学が初めてということになりました。高等女学校を受けた時は戦時中とて、内申書と体育、面接だけでしたから。
東京での住まいは、杉並区の中だけでも4ヶ所に及びます。
・下高井戸 (大阪吹田工場長から鉄道省本省に戻った時)
・久我山 (秋田土崎工場長から本省に戻った時)
・旧沓掛町 (荻窪駅北。運輸省(旧鉄道省)を退官して官舎から小松製作所の社宅へ移った)
・永福町 (父親の急死で、初めて自宅を購入して住むことになった)
杉並区には、最近ではキムタクやタモリさんなど芸能人の豪邸が多くあると聞きます。
東京都の知事を2期8年間務められた故鈴木俊一氏も、偶然ながら、我が家から10分ほどの所にお住まいでした。
私ごとになりますが、鈴木氏は夫の20年も先輩ながら、私たちの結婚の際、仲人を務めて頂いたというご縁もありました。
杉並区に10年住んだ東京では、人生の大きな節目が、3回ありました。
高校から大学受験と大学時代
卒業後の職場
結婚と同時に福井市への転出
(まさに再び転勤族生活の始まり)。
ここでは、高校時代を簡単に語るにとどめ、大学以後は、次回に譲ろうと思います。
秋田高等女学校から、バスケットボールへの憧れを抱いたまま、転校した武蔵高女のバスケットボール部は、部員も少なく、弱小チームでした。
それでも、センターは長身の美人で、運動神経も抜群。秋田を思い出しながら、毎日暗くなるまで練習したのは楽しかったものの、家へ帰ると夕食後はバタンキュー。
お陰で英語の予習など出来るわけがなく、授業中は、専ら机の下の虎の巻を頼りに、ビクビクしていたものです。
当時の女子校もなかなか楽しい所でした。音大出ほやほやのハンサムな男性教師が担任になろうものなら、女ばかりの教室は大変です。お熱騒ぎは日常茶飯事、黒一点を混えて旅に繰り出したり。何とも伸びやかなものです。乙女最中の私も、エイプリル・フールにかなり凝った悪戯をして、その先生を困らせた覚えがあります。
3年生の夏休みには、YWCAの水泳教室へ通って、念願のカナヅチ脱出には成功したものの、9月になって、ふと気がつきました。
大学受験まで後6ヶ月しかない‼️
受験科目は選択7科目。 国語の勉強は省くとして、1ヶ月に1科目ずつ、英語、数学1、数学II、物理、生物、世界史をマスターしようと計画を立てました。専ら参考書と問題集を頼りに。
何でも計画通りには行かないものです。入学試験は3月3日からだったので、2月に入ると、何とか間に合わせようと焦って、あちこち突っつき回り、何をやっていたのか自分でもわからず、1か月を棒に振ってしまった感じでした。
何とも酷い有様でしたが、運命の神様が微笑んで下さったのか、亡き父が応援してくれたか、合格の知らせを、偶々玄関まで出ていた母親に届けることが出来ました❣️
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*写真はすべて東京都立武蔵高等学校同窓会HPより
https://musashi-dosokai.com/?page_id=7149