やや。
随分と昔のこと。
若いということは、いつまでも寝ていることが出来ます。
いくら寝ても眠くって。
どうしてあんなに眠れたんだろう。
随分と昔のことなので、あの時の感覚が分からないのです。
いつだって、分からないことばかりなのです。
その日は久しぶりに、いつまでも寝ていてもよかった日だったのです。
学校を卒業してすぐに、父親が経営している会社に入り、土日なんて関係なく朝も夜も働いていました。
そんな働き方が当たり前だったんです。
若いってそういうことなんです。
いつまでも寝ているつもりだったある夏の朝5時に、父親に起こされて「会社が倒産する。」なんて言われても、何がなんだか分からないのは仕方がないんです。
「友達から借りてるレコードを返さなくちゃ。」
そのくらいしか思い付かないものです。
「俺は知人を頼って東京にいく。お母さんたちは実家に一旦返そうと思う。お前はどうする?」
そんなこと父親から言われても実感ないのは、たぶん若かったからなのでしょう。
結局、全員で東京に行こうということになったわけです。
「明日の早朝に車で出よう。」
「きっとこんな千葉の田舎よりも仕事はあるし、なにより惨めな思いをしなくて済む。」
そんなことを父親は言っていました。
そんな話を聞いても何が起きているのだろうと考えながら、「今日も暑い日になるなあ」なんて上の空だったのです。
どうしてなのか今でも分からないのですが、友達は全員に会えてレコードも返せたのです。
「返すのいつでも良かったのに。」
そんなこと言われたんです。
もう会うこともないのになあ。
そういうこと。
夜逃げなんてレアな経験して東京へ。
東京の知人の家の一間を借りることになったんです。
五人で寝泊まりするには少し狭く感じましたが、それでも眠れる場所があるのは良かったのです。
知人が日雇いの仕事も紹介してくれました。
手数料として、僕と父親の日当の四割を知人に渡さなければいけませんでしたが、それでも仕事があるのは良かったのです。
夜はお酒を飲みました。
休みの日は、まだ小学生だった妹と散歩をしたのです。
東京の川沿いの街でした。
悪くない生活だったように思うのです。
正直なところ、少し記憶があやふやです。
それでもアパートを自分たちで借りるようになったり、手数料渡さなくてもよい仕事を見つけることが出来たのです。
充実してたのだと思うのです。
充実してたとは思うのですが、いつも頭のどこかで「やりたい仕事には就けないな。」というのはありましたし、「普通の生活は無理だな」と考えることはありました。
なんといっても夜逃げですから。
ドラマでしか見たことない夜逃げなんですから。
いよいよ僕も悲劇のヒロインかと思ったものです。
血でも吐いて死ぬかと思えばそんなこともなく、昨日と変わらない今日を過ごしたりしたわけです。
どうやって今日になったのだろうと思うことがあるんです。
夜逃げをしたことで迷惑かけた人たちもいると思います。
その人たちには「ごめんなさい」しか言えないのです。
父親は83歳まで生きました。
母親も同じような年齢になりそうです。
長生きが良いかは分からないのですが、そういうことなんです。
妹たちも結婚したり子供が出来たりです。
誰に伝えて良いかは分からないのですが「どうもありがとうございます。」
そういうことなんです。
そして現在。
子供たちふたりは、僕のことを知りたがります。
これまでしてきた仕事や知り合った人たちの話を、僕なりに楽しく伝えてきたのです。
その話を聞いて、ふたりともよく笑います。
それでもあの数年のことはまだ話せていないのです。
話さないつもりではないのです。
必ず話そうと決めてもいないのです。
楽しい感じで伝えることは出来ると思うのですが、それでも子供たちはどう受け止めるかしらと考えると、そこはなんだか色々なんです。
それで今、大変なことになってる人や辛い日々を送ってる人に、「いつか良いことがありますよ」なんて言うつもりもないのです。
これは僕のことであって、他の人たちにとってなんの参考にもならないのは分かります。
あの時が最終回なら話は別ですが、まだ僕の人生は話の途中なので、これから二転三転すると思うのです。
一人ひとりが、自分なりに大変なんだろうなと。
誰が一番大変なのかなんて、言うつもりもないのです。
「若いうちの苦労は買ってでもしろ」
そんな言葉があります。
最近はそうでもないかもですが、僕が若いころは周りの大人がそんなこと言ってました。
田舎だったからかもしれません。
当時も今も、そんな言葉に違和感あったりしたのです。
しなくて済むなら苦労しないほうが良いに決まってます。
大人になってからやってくる苦労は、そのとき考えたら良いのです。
苦労の練習なんて必要ないと思うんです。
もし必要なことがあるとしたら、自分の逃げ道を自分で作ることなんだろうなと。
そんなこんなで本題。
どうしてこんなことを書いたかというと、僕の記憶があやふやになっているからなんです。
備忘録ということ。
数ヵ月後に、母親の忘れ物を取りに僕ひとりで実家に忍び込んだときの、家のなかの荒れ具合。
友達が懸命に僕を探してくれたこと。
当時小学生の妹が、大変だったこともあったと思うのに素直に成長してくれたこと。
父方も母方も、親戚みんなが冷たかったこと。
父親が晩年まで「お前たちには迷惑かけた」と言っていたこと。
その話を聞くのがとても嫌だったこと。
夜逃げで悲劇と思っていたのに、家族が持てたこと。
子供は可愛いなあと思うのです。
なので、夜逃げしてきて良かったなあと思うのです。
それもこれも、夜逃げしたお陰だなあと。
ありがとう、ありがとう。
東京に出て来て以来、たくさん寝なくても大丈夫になりました。
大人になったということ。
だけど寝るのが好きだったので、それはそれは残念なわけです。
少しだけそれは残念なんです。
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