ネオ旅行記(2) 雪の根尾徘徊編
根尾の宿に荷物を置いて、淡墨桜への道筋を宿のご主人に伺い、そして違う方向に歩き始める私である。
根尾の小さな町にも家電は求められる。この電気屋さんは現役っぽかった。
なんというわけじゃないけど、なんか目に止まった消火栓のある道端。根尾の街はやたらと消火栓がある。なんでだろう、消防署が遠くて緊急消火をここでやらなきゃいけないのかな……と思ったけどすぐそこにあった前を通ったな。消火栓より消防署の方が新しいのかも。
別の消火栓。かわいい。
根尾川の橋から。根尾は根尾川と西谷川とが合流するところにある。水害もありそうな気がするが、地図見た感じでは、合流や流れの曲がったところの先はあまり民家がないように見える。
あとおそらく河岸段丘ができてて、街はみんな一段以上高いところにつくられてるか。
竹が雪で曲がっている。積もった雪の重みでこうなるのはわかるけど、おおむね同じ方向に倒れるのはどういうメカニズムなんだろ。
道を間違えていると気がついて、戻りかけたところの私の足跡。
一度除雪が入ったところだからこれで済んでる。
国道157号の脇に階段があって、ここを登った先は神所城の跡地。
今は根尾神社があって、かつての城主根尾右京亮が祀られている。根尾神社も由緒などよくわからないっぽいが、嘉永5年(1852年)創建らしい。
ただこの、除雪されてないところは雪がスネの半ばくらいまで30cmは積もっていて、階段もちょっと雪に慣れない南国人の私には危険そうで、上までは行けず。
根尾右京亮、私にはほとんど知識がない人物なのだけど、信長の傘下にあったようで、朱印状が残ってる。第二次信長包囲網の頃、1571年のもの。伊勢長島の一向一揆に苦戦してたり、比叡山焼いたりしてた頃。
当時の加賀・越前の商人はここを通っていたのだけど、そいつらを根尾で止めて通すなという内容。朝倉氏や一向宗への敵対行動っぽいけど、一応前年末に正親町天皇の勅命で浅井・朝倉と和睦してるはずだが。
もうひとつ、鎌倉時代から根尾にある圓勝寺というお寺に、善勝という住職がいた。しかし石山合戦が起こって彼もそちらに戦いに行って、もちろん敵対行為だから寺も焼かれた。
石山合戦が終わって越前の一向一揆も壊滅し、善勝は根尾に戻ってきてしまったようで、根尾右京亮に捕まって斬首されてしまった。
右京亮はその首を信長に届けて恩賞に預かろうと岐阜の方へ向かうところで、本能寺の変が起きて信長が死んだと伝えられた。じゃあもうこんな首一銭にもならんわと根尾川に投げ捨てた。その場所が今でも、日当駅の北に史跡として残されている。
善勝は首に値打ちがあるくらいに一揆の中で立場があった人なのかもだけど、だったら許されるとも思えず、なんで戻ってしまったんだろうな。
そのちょっと北にある春日神社。由緒の記録が絶妙に破損しちゃってるようで、創建が○延○年とのこと。ある程度絞り込めそうだけど候補は複数になるなあ。
この杉の木にもたれかかるような藤の木が、本巣市指定天然記念物になっている。1804年の文献に記載があって、その時点ですでに「大きなる古き藤蔓あり」と書かれていたそうな。伝承では、南北朝時代に南朝方としてこの地にいた根尾入道員氏が植えたともいわれているそう。
根が参道を横切っていて、またいで通れば六根の不浄を除かれるとのことだったけど、雪で埋もれててよく見えんかった。踏んでしまってたらまずかったかもしれない……。
この雪の中でも何人かは参拝者があったような足跡があった。
春日神社のあたりから、西の方へと向かって西谷川をわたる。
大井の殿屋敷、という史跡がある。
根尾右京亮の居館があった、あるいは嫡子の島右京という人物が住んでいたとも。川沿いに40m四方を土塁や堀で区切ってる地形になってて、土塁は今でも西・南側に回れば見れたらしい。これ北東側だけども。
山城のふもとに居館がある作りはよくあるけど、神所城を詰城にするとすると、川向うだからいざというときに渡れない気もする。
で、ここから西側の道を通って淡墨桜のほうへ向かおうとしたんだけれど、ノー除雪ノー通行で30cmの雪に埋まっており、とても雪国素人が装備もなく通れる道ではないと判断して来た道を戻っていきます。
次回は雪を咲かせる淡墨桜編。