三郷町から龍田越(RICOH GRIII)
奈良県の未踏市町村を訪ねてみるシリーズ第二回。今回は三郷町。
JR大和路線や近鉄生駒線に乗ると通過するけど降りたことはほとんどない。信貴山を訪ねたことはあるけど、朝護孫子寺は平群町(信貴山観光ホテルとかバンジージャンプが三郷町です)。
いくらでも通ってるのに訪ねてはいない、Visit / Pass比の非常に高い町なのでした。
信貴山下駅・東信貴鋼索線の跡
信貴山下駅にはかつて、東信貴鋼索線というケーブルカーが接続して、信貴山まで上がれるようになっていた。今でも西側にあるやつが東にも。
大正7年の生駒鋼索鉄道、大正10年の箱根登山鉄道鋼索線に続く日本でも3番めに古いケーブルカーだったんだけれど、60年ちょっとあとの昭和58年に廃止。
信貴山下駅構内に、この車輪と、巻き上げ機のコントローラーであるらしいパーツが展示されている。
しかし、以前信貴山から降りてきて信貴山下駅を使ったことはあるのに、駅前にこんな堂々と車両を展示してるなんて気づかなかった……と思ったら、以前小学校に保管されてたのを2020年に移してきたそうな。
しかも中まで見せてくれる。土日祝の9時~4時。すぐ近くの町立図書館が休みのときは閉めるとのことなので年末年始とかは無理かな。
シートを張り替えて塗装は塗り直して金属は磨いて、いい感じ。
別に車両に詳しいとかはないのだけど、私は年齢的に、そしてやたらと物持ちがよくて車両を更新しない南海電鉄沿線民だから、子供の頃の電車の記憶はかなりのレトロ車両が混じっててな。
阪堺線のチンチン電車なんか、天王寺の再開発で乗客が激増する以前は昭和が2010年とかまで走ってて、床が木の板のやつがいたもんで。
だからこのレベルのレトロはリアルに知ってるのだ。
それから車内広告が、山上の「柿本屋」という旅館のもののまま残ってたんだけれど、東信貴鋼索線廃止に巻き込まれ……るようなこともなく、廃止40年を経ても健在だった。
駅前から信貴山へとまっすぐずどんと伸びている道が、まさに鋼索線跡地。このへんはケーブル線沿いの道路を拡幅するのに跡地が転用され(だから結構周辺の道路の取り回しがおかしい)、上の方にいくと信貴山へ最短距離で上がれるハイキング道になっている。激坂だと思うけれども。
蒸気機関車
戦国時代、三郷町あたりは立野氏という国人がいたそうで、信貴山下駅すぐ山手の地名にも「城山台」とある。が、それがまるごと宅地開発されちゃっていて、あいにく今見えるような遺構はなにもない。実際なにもありそうに見えなかった。
そして見下ろすと、三郷小学校のグラウンドに何かいる。
C57 160号機だった。1942年製造で、69年まで宇都宮や千葉の方で走って、和歌山に飛ばされて、程なく紀伊田辺検車区に飛ばされて、1971年には廃車されたそう。短い期間だけれど、和歌山線で仕事してたのかな。
かつては駅前の東信貴鋼索線車両もここにあったんだと思うけど、この小学校は鉄道好きなんだろうか。
龍田大社
そして龍田大社。両部鳥居だ。さすが名神大社。
意外と境内が広大なわけではない。拝殿の向こうの本殿のガードが固くて全然見えないあたりは格が高そうな感じはするけれど。
しめ縄を柱にも巻き付けてるのはなにかあるのかな。
境内摂社もこぢんまりしていて、拝殿左手に白龍社・龍田恵美須神社・三室稲荷神社が並んでるのと、多分藤の咲く頃には華やかであろう下照神社くらい。
しかし境内の整備は随分行き届いていて、ふと道端を見ると細々と置かれたものがある。全体として美しい神社だ。
それから巡洋艦龍田の顕彰碑があって、砲身と砲弾が飾られていた。
しかし、砲身は十四年式十センチ加農砲(陸軍の野戦砲)だそうで、見えてる砲弾もどう見てもこの砲に使うサイズじゃない(明らかに砲身より太い)。明らかに巡洋艦龍田に積むようなものではない。
実物はまだ八丈島沖に沈んでるんだろうけれど、なぜこれを……?
安村家邸内社、というお社があったが、これは先述の立野城でこのあたりを治めていた立野氏の……後裔なのか一族なのか、江戸時代はじめあたりに龍田大社の神人をやっていた安村氏の屋敷にあったお社だそう。
片桐且元が龍田藩を興して、大和川の水運(魚梁船)の支配を安村喜右衛門にまかせていた。のだけど、その片桐氏が無嗣断絶して、後ろ盾をなくした感じで安村氏から村の惣百姓へと支配権が移ってしまった。
その後また安村家が幕府に請願して取り返したけど、幕府から魚梁船の利益は龍田大社の修復料に当てるように命じられたそうで、なんか「特権で揉めたから剥奪されて神社に移された」みたいな感じがあるな。
龍田大社から駅の方(つまり大和川の方)へ降りていく坂は「安村坂」と呼ばれていたそう。多分これ。
降りてくると、神奈備神社という末社があった(写真左手奥)。神名備は神の住む森という意味らしいけれど、かつて背後にあったであろう森は人に切り開かれてしまっておるな。
別にお社などは古くなかったけれど、灯籠にしれっと「延享二乙丑年」なんて彫ってあった。
三郷駅まで来たけど、まだ歩くほうがいいかなということで、このまま龍田越奈良街道を行くことにした。
龍田越奈良街道
龍田越は、難波宮から平城京まで、遠回りだけど平坦なルートとして重宝されていた(最短は今でもきついと知られる暗越)。
この第三大和川橋梁は、日本遺産・亀の瀬の地すべりを構成する文化財のひとつで、1931年の地すべりで大和川右岸を走っていた関西本線が壊滅し、急遽左岸に付け替えたところ、こんな斜めに川を渡るような懸け方にならざるを得なかったそうな。
駅前からしばらく歩いて住宅地をすぎると、古道らしい道に入る。しかし舗装はされている。というか意外と車が来る。道沿いに古い集落が残って人も住んでいるし、ちょっと地元の人の裏道みたいにもなってるんだろな。(普通に通るなら国道25号が大和川の対岸を通っている)
道端にそれなりに年季の入ってそうな石垣も見える。これは振り返って撮影してるから、川沿いに小高く盛り上がったところに張られている石垣。
で、元々はその丘を、関西本線(当時は大阪鉄道)のトンネルが通っていたそう。石垣もその時付けたとかかもしれない。
少し行くと峠という古くからの集落らしいところに来て、八幡神社がある。峠というものの、アップダウンはほぼ感じないくらい緩やか。暗越と大違いだ。
古道感はありつつも、なにか写真で観るような見どころがある感じでもなく、淡々と歩いてきて亀の瀬地すべり資料室を通りかかった。
亀ノ瀬トンネル跡の見学は予約がいるけど、資料室だけなら見学OK。
かつて何度も地すべりを起こして大和川をせき止めて王寺町や三郷町あたりを水没させ、その後天然ダムが崩壊して柏原市あたりを水没させ、20世紀に入っても大阪鉄道のトンネルを圧潰し、と暴れていたやっていた亀の瀬も、60年の歳月と850億円の費用と建築技術の進歩によってようやく制圧され、最近はほぼ地面の動きも止まっている、ということが解説されていた。
崩壊した鉄道トンネルは、地すべり対策の工事中にいきなり突き当たって、2008年になって77年ぶりに発見されて今に至ると。
資料室からさらに西に、いかにも古くからの集落というところを歩いて通り抜けると、また関西本線が大和川を斜めに渡って右岸に戻ってくる。第四大和川橋梁。
90年くらい前に大慌てで、この狭い峡谷の両側で地形の変更も最小限で済ませようと作ったものだと思うけど、今なお線路を支えている。難しいところなのはわかってるから強固に作ったんかなあ。
なかなか壮観。
踏切を渡っておかないと、対岸にいく橋を渡ってしまう。
そして河内堅上駅。
電車待ちが結構あったし、まあ平坦だったからさほどきつくもなかったけど結構歩いたので、駅前で看板が出ていた「山の上CAFEほんのきもち」というところへ寄ってみた。
ちゃんと作ってある、という感じのホットドッグとカフェラテ。
ということで、奈良県の経験値は三郷町を訪問したので更新。