後戻りが恐い。
創作活動(とは言ってもやってることはその時その時でバラバラだし、お金になってるわけでもない。強いて言うならば自分の内面を吐き出しているだけ。だからあまり高尚なものを想像しないで欲しい)をしていると、頭の中に「?」が浮かぶことがある。
気にはなるが、そのまま続けてしまう。続けることができてしまう。
だが、自分ではその「?」が何なのかは実は分かっている。
納得できていないのだ。
何か他の選択肢のほうが良いことが分かってしまうのだが、どこまで戻るのが正しいのか、どう直すのかは分からない。
直そうとしてみることももちろんあるし、それで「?」が消えることもある。
しかし、直そうとすればするほど頭の中の「?」が膨らんでしまうこともある。
そうなってしまった時、一旦その直し方は諦め、「?」が最も小さかった気がしたところまで戻る。
すべての「?」を消したいのは山々だが、それはできない。
まず第一に、時間と気力の制約だ。
手直しにひたすら時間を掛け続けられるほど時間が有り余っている訳ではない。気力が尽きてしまうこともある。かなりの時間を費やして生まれる変化は、どんどん微々たるものになっていく。手直しできるキャパシティは無限ではない。
第二にあるのは、能力の問題だ。
単純に自分に改善できるだけの知識、技能、経験が備わっていないのである。それは挑戦してみてどうしようもなければ諦めるしかない。が、この問題に関しては、自分の成長を実感できることもある。楽しさと隣り合わせの部分であり、あまり気にしないようにしている。
そして、後戻りが恐い、ということだ。
わざわざ労力を掛けてまで過去の自分を否定したくない。という思いがある。そして、その労力の先に待っているものが悪化だった場合、元の形に戻す。これで安心感を感じてしまう。相対的に良くなっているからだ。
しかも、その創作活動が何気なく始めたものであった時「?」を潰す作業で一旦作業の流れが途切れることで「なぜこの活動をしているのか」という疑問にぶち当たることすらある。
こういった経験が積み重なり、どんどん後戻りが恐くなる――。
自分を投影する創作活動であるからこそ、過去の自分が、自分から生み出したものを否定したくないのだ。
どうすればいいのか、という答えは出す必要がないと思っている。
この考え方も自分で自分に向き合うためには必要なのだろうと思うからだ。
ではなぜ、この文章を書いたのか?
それは、これが自分の内面を吐き出す、創作活動だから。