第3話 閑話
最果てから帰れない
◆ まみ(すーさんの元カノ)
電話が切られた。初めて彼から電話を切られた。
明るくて優しかった恋人がもう二度と手の届かない人になってしまったことがはっきりとわかった。息がしにくい。あんなにも楽しい時間をくれた彼は、もう二度と私の前で微笑まない。それどころか、私は彼に何も返せないままだ。胸のあたりが痛い。心臓がバクバクと煩い。
――俺と付き合うと病む人多いけど大丈夫?
付き合う前に彼が言った言葉だ。そのときは意味がよくわからなかったけれど、付き合い始めたらよくわかった。彼は誰にでも優しい。誰とでも遊ぶし、いつだって機嫌よく、明るく笑っている。私は彼に釣り合っていない。私以外の方がきっと彼はうまくやれる。その考えは一度浮かんだら離れなくなった。そばにいればいるほど寂しくなった。すきになればなるほど不安になった。
試すように前の恋人のことを話すと、彼は、そんなにすきだったんだ、そっか、と慰めてくれた。それだけだった。彼が私をすきなのかわからなくなった。それからどんどん自分の気持ちもわからなくなった。彼がすきだったはずなのに、前の恋人の事ばかり話して、それでも彼が笑うから、きっとこうした方がいいとさえ思うようになった。
「……どうしよう」
彼と離れたらこんなに寂しくなることが、どうしてわからなかったのだろう。でも、もう彼のところに帰れない。彼から一番遠いところで、わたしはひとりだ。心臓が痛み、息ができず、異国の路上に座り込む。
それでもここからもうどこにも帰る道がなかった。
彼の背中には傷がある
◇ イエロー
俺が水戸くんと知り合ったのは、高校を卒業して四年経ってからだった。
俺がたまたま母校に行ったときに彼もたまたま来ていて、そこで初めて顔を合わせて、少し話をして、面白そうなやつだと互いに思い、連絡先を交換して、……そこから少しずつ仲良くなった。
だから俺は彼と親しくなっていく間、彼の親友のことを全く知らなかった。
なにかの席で「その日は命日だから行けねえや」と彼が言ったときに『誰のことだろう』と思ったことは覚えている。その小さな違和感を覚えたときから随分とあとになって、他の同級生から『彼』のことを聞いた。
「羽山くんでしょ。本当に将来有望で……残念だった」
同じ高校だったけど、俺は『彼』を知らなかった。知らなかったからその訃報も聞かなかった。だからなにも、知らなかった。
『彼』は話を聞く限り面白そうなやつだ。そもそも水戸くんの親友をやれるなんて、そりゃめちゃくちゃ面白いやつだろう。今だって俺は彼と仲良くなりたい。けれど、彼と知り合うことすら永遠にできない。しかも、それは自殺なのだ。
俺は、それを知ったとき、水戸くんになんと言えばいいのかわからなかった。だから連絡はしなかった。水戸くんだって、彼の話を俺にしようとはしない。だから結局、俺はなにも言わないことにした。
今でも、俺『は』水戸くんからその話を聞いたことはないままだ。
俺がきっと死にそうにならない限り、水戸くんは俺にその話はしないのだろう。だからこそ俺は彼にその話をさせないために、死にたいとは思わない。
それでも、ふとした会話のときに『優が言ってたんだよ』だとか『あいつが教えてくれたからなあ』だとか、片鱗に触れることはある。そんな風に隠しきれないぐらい、彼の中には彼がいて、そうして、そこには傷がある。
だからこそ水戸くんの背中の鳳凰は、傷みたいに見える。しかも未だに血を流しつづける傷だ。
それは軽薄な俺には理解できない深い傷跡で、深い痛みだ。だから俺は結局なにも言わない。彼もまた、なにを言わない。
彼が軽口を叩くなら付き合う、いつだってそのぐらいの距離感だ。
「水戸くんさー、……それ痛くなかった?」
「なに?」
「その範囲の刺青ってさ」
「えー? すーさんも入ってんじゃん。おんなじぐらいだろ」
俺の刺青と違って彼のものは痛々しい。でも彼は気にした様子なく笑う。彼はいつもそうやって笑う。涙をどこかでなくしてきたみたいに笑う。
「すーさんと飲むの楽だよ。すーさん、酒飲まねえし、酒飲み嫌わないし、俺の背中見ても叫ばないし、半裸で飲める友達がいてよかった」
「いや服は着ろよ」
「暑いんだよ、夏」
「わかるけども」
彼は俺の執着のなさを歓迎する。それを病むことなく俺の友人でいてくれる。ほどほどの距離感でいてくれる。たしかにそれは俺にとってもひたすらに楽だ。
「水戸くんと高校のとき仲良くなくてよかったわ」
「なんで?」
「なんとなく。今でよかった」
水戸くんはハイボールを飲んだあと「そうだな。俺も今でよかった」と笑った。多分俺たちはこんな感じで一生付き合っていけるだろう。執着もなく、重さもなく、軽薄に、「楽でいいよ」、そのぐらいの温度で。
「つーか、すーさん、なんで飲まねーの?」
「バナナジュースのがアルコールより美味しいから」
「素面で生きていけるのヤバイな」
「水戸くん、血を吐きながらも飲む人の方がヤバイよ」
つい笑うと、水戸くんはチラと俺を見て「ククク」と喉で笑った。
涙の数は少ない方がいい
◇ ピンク
「おはよー、つづきん。時間通りじゃん」
「社会人として当然のことでしょ。ピンクは? 生きてる? あ、顔色よくなったじゃん」
「え、っと……」
当たり前のようにイエローの家に泊まらされた翌日、当たり前のように、朝一でレッドが迎えに来た。さすがにいい加減にひとりにしてくれ、と言おうとしたのだが、その前にイエローに背中を押され、レッドに腕を掴まれてしまう。
「じゃあ、行くよ」
「は? いや……え、どこにっすか?」
「タクシー止めてきてるから急いで」
「いや、ちょっ……! イエロー!」
イエローに助けを求めようとしたら、彼はヒラリと手を振って、笑いやがった。
「そのデニムもパーカーも、俺にはでかすぎるから一くんにあげるよー、んじゃねー」
「『んじゃねー』じゃないんですよ! ちょっとっ! イテテテッ続木さん、耳を引っ張らないでください! せめて腕!」
最年少の俺の意見なんて『失恋ファイブ』の誰も聞いてくれないことはいつものことだ。結局そのまま引っ張られ、イエローの家を後にすることになった。まともなお礼のひとつも言わせてもらえず、俺はタクシーに詰め込まれ、行先も分からないままだ。
「……無茶苦茶すぎません?」
「そう? 失恋よりマシでしょ」
ピンクは足を組み、前髪をかきあげて、車窓を見た。そのような仕草が様になる程度には、彼女は綺麗だった。
よく忘れるが、続木さんは美人なのだ。
爪の先から髪の先まで整えられていて、いつもいい匂いがする。言葉遣いだって、『失恋ファイブ』のとき以外は、いつも女子アナウンサーのように正確かつ丁寧だ。つまり彼女は、今まで見たどんな女性よりも、常にちゃんとしている。
なのに、恋をする度に当て馬になっている。一体どうしてなのだろうと彼女の横顔を見ていたら、彼女がフっとこちらを向いた。睫毛の角度まで完璧だった。
「一くん、今日は病院行くから」
「へ? 病院?」
「心が死んだときは身体にも影響出るから、ちゃんと全部検査した方がいい。経験者の言うことに従いなさい」
サラリと彼女はつっこみにくいことを言いながら、当たり前みたいに俺の手を握った。彼女の手は小さく、その力は弱く、肌はあたたかい。掴まれた手を見てから、彼女の顔を見る。真正面から見ても綺麗な彼女が、真っ直ぐに俺の目を見ていた。
「大丈夫、一緒にいる」
「え? いや、別に検査ぐらい、ひとりで……」
「一緒にいる」
とても綺麗な女性に力強く断言されると、妙な圧がある。だから俺は結局、彼女の言葉に頷くしかできなかった。
タクシーが病院に連くとすぐに俺は検査室に案内された。すでに予約がされていたらしい。しかも、今までの人生で一回設けたことがない人間ドックだ。いくらするのだろうと思いながら検査着に着替え、案内されるままに次から次へと検査を受けた。
その間、ずっと続木さんは俺の傍にいた。本当にずっと、一緒にいてくれた。
夕方、すべての検査が終わり、エコーだとかCTだとか胃カメラだとかの結果から、胃潰瘍になりかけていることがわかった。言われてみればたしかにずっと腹が痛かった。でも『ただの心労だろう』と無視していた。でもこうして調べてはっきりと、身体が炎症を起こしていたのだと理解した。
彼女の言うとおり、心が死んだから、身体も傷んだのだろう。
「なりかけならすぐに治る。大丈夫だよ、一くん」
「……はい」
検査結果を聞いている時もずっと、続木さんは俺の手を握ってくれていた。そうして今、会計を待っている間ですら、彼女は俺の手を握ってくれている。
彼女の掌はとても柔らかくて、すべすべしていて、あたたかい。爪は小さくて、キラキラしていて、触れられていてすこしも嫌なところがない。一方で俺の手は骨ばっていて、怖いぐらい大きくて、ザラザラしている。そんな知りたくなかったことが、彼女に触れられて初めてわかってしまう。
「……続木さんって、綺麗な人ですね」
「うん、私は努力しているから」
「……努力、でなんとかならないこともあるでしょう?」
「一くんは女になりたいわけじゃないでしょ。女を仮想の敵に見立てたところで、失恋の傷は塞がらないからね」
ゴス、と胃潰瘍の上から腹をぶん殴られたような錯覚を覚えた。
彼女の正論にひとつも反論ができずに俯くと、彼女は俺の手を離して立ち上がった。そして彼女は座っている俺の前に立つと、柔らかく微笑んだ。その笑顔が怒っているようにも思えて、また目を伏せる。
彼女の白い手が俺の頭に触れ、優しく髪を撫でてくれた。
「あのね、一くん」
「……なんでしょうか……」
気まずくて目を伏せていたのに、彼女の手が俺の顎を掴んで上を向かせてしまう。
「私は自分を磨いてきたから、なにがあってももう、自分のせいじゃないって言い切れる。相手が悪いって、言える。……そうじゃないと、自分を殺したくなる日が今までたくさんあった。ひとりで泣いて、吐きながら朝を迎えたこと、たくさんあるの。だから、今の私がある。これは決して誇れることじゃない。一くんはこんな風にならなくていいのよ」
彼女の微笑みは、女神みたいに綺麗だ。
けれどそれは痛みを知っている人のもので、俺は泣きそうになった。この人にこんなことを言わせてしまうことに泣きたくなって、けれど、この人に言われるからこそ、腹の痛みに染みわたってしまう。そのことが申し訳なくて、でもありがたくて、息を吐くと鼻が痛くなった。
彼女の柔らかな両手で頬を包まれると、気持ちが良くて、つい笑ってしまう。けれど、そうして漏れた俺の吐息は泣いていた。
「一くんは今、とても傷ついている。その傷が塞がるのは、もうずっと後かもしれない。でも、……一くんのこと、ずっと、ひとりにしないから」
続木さんと初めて出会った時にこんなことをされたら、俺はきっと彼女を好きになってしまっただろう。そうしてきっと彼女を傷つけることになったかもしれない。でも今ならわかる。彼女と俺の間にあるのはそういった見返りが必要なものではなく、もっと純粋な優しさだ。
だからこそ、俺は素直に頷くことができた。
「ありがとうございます、レッド。あなたが今、ここにいてくれて、よかった」
「でしょ? フフ、泣きたくなったら電話して。いつでも行くよ。私も、みんなも、いつでも空けるから」
彼女の言葉は口先じゃない。事実、そうなのだ。
実際ブルーもレッドも仕事を休んで俺のそばにいてくれて、イエローもシフトの調整をしてくれて、楠木さんは毎日仕事の合間をぬって連絡をくれている。俺が一番暇な学生なのに、そんな俺のために彼らは日常を犠牲にして、尽くしてくれる。それは、全部、……俺をひとりで泣かさないためだ。俺がどれだけひとりで泣きたくても、彼らは絶対に俺をひとりにしてくれない。今まで何度もひとりで泣いて、ひとりで吐いて、ひとりで死にたくなる夜を過ごしてきたからこそ、それがどれほどおせっかいで、けれどどれだけ優しいことか、俺にはよくわかっていた。
俺は彼女の手に自分の手を合わせて、涙をこらえて、息を吐き出した。
「……レッド、どうしたら手がカサカサしなくなるか教えてくれます?」
「メンズメイクはブルーとイエローの方がいいけど?」
「いや、メイクは……まだ……とりあえず手を柔らかくしたいです」
「オッケー、じゃあこの後、デパートね」
彼女がにこりと笑う。
俺はこの笑顔が曇ることがない明日が来ればいいと心から祈れる。男女の友情はたしかにここにある。俺たちが証明だと、強く思った。
「……ところで、続木さんって、水戸さんのことどう思ってんすか?」
「ド変態クソ眼鏡だけど? どうして?」
彼女の目は心から『なんで今あの野郎の話を出した?』と言っていた。
「……ウッス、なんでもないっす」
俺と水戸さんの間にある情みたいなものと比べると、彼女への感謝と友情と尊敬は比べ物にならないほど強いものだ。だから俺はこの後ブルーの話は一切せずに、彼女とのショッピングを楽しんだのだった。
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