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岡潔の語る時とは

おなじく心情圏1968年に「日本再建への構想」の題で掲載された文章。時間及び時について語っています。

時間とはどういうものか聞いてみると、たとえば太陽が一回まわるので一日だというのです。これは物質の空間的運動です。時間ではありません。たとえば、では今時計は二時六分だと言うんですが、これも一つの空間的なものであって時間ではありません。時間とは何か全く知らないまま時というものがあると言っているのです。とにかく時間というものがある。そして、物質は時間と共に変化する。この自分の肉体も物質であるから時間と共に変化する。物質が変化すれば機能(動き)というものがおこる。自分は、肉体とその機能とであるという。これは自然のごく簡単な模型というよりいかんとも言い方がありません。自然のごく簡単な模型を考えて、その中で科学したものを集大成したもの、それを自然科学と言っているのです。

「時間は過ぎゆく運動の記憶」という辺は弧理論のΦさんが強調しているところですね。

それにしても、大体五感に感じないものは、ないというのは、乱暴きわまる仮定です。釈尊は出発点において、「五感に感じるもののうちに本質的なものは一つもない。五感をとじて修業せよ」と教えたんです。それが仏教です。しかし、欧米人は、少なくとも肉体に備わった五感に感じないものは「ない」としか断定できない。野蛮な原始人とどこもちがっていない。
ととろで、この時間ですが、聞いてみると皆、空間的な距離のことを時間と言っている。時間というものは感覚もできず言葉でも言えません。それをあるとして顧みず、時はすぎゆくとそれだけ思っている。人は時間の中に住んでいるのでなく、時の中に住んでいるのです。
時には過去、現在、未来の別がある。希望も持てるが、不安も抱かざるを得ないもの、それが未来です。それが不思議にも突如として現在になる。そうすると全てが明らかであるが、全てが動かし難くなる。それが現在の厳粛さというものです。人生は厳粛だというのもその意味です。いつまでもこれではとても生きていかれない。ところが、不思議にも又突如として過去に変わる。そうすると全ては記憶としか思えなくなる。それもだんだん薄れて遠ざかっていく。それが時というものです。情緒に現われた時というものです。それあるが故に、人は生きているといえるのです。即ち生きるとは情緒に現われた時に生きることです。

岡は情緒については、こうも言っています。

自然は心の中にある。自然が心の中にどんなふうにあるかというと、情緒としてある。

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