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あなたが正しそうなことを言えるのは、そこに当事者性がないから。
※補足:この記事は、特定の人物の政策や政治信条の是非について論じるものではないことをあらかじめ記しておきます。
「おつかれさま」という当たり前
先日、内閣総理大臣の職を辞任する意向を表明した安倍首相。病気を理由にした志半ばの退陣にさまざまな声が挙がりました。約8年間という長期政権、計り知れないストレスとの闘いがあったことでしょう。
ですが、ひとつだけ今回の辞任にあたり私がどうしても違和感をもったムーブメントがありました。それは「まずは首相に“おつかれさま”と労うべき」という「おつかれさま」論です。
「政治的な主張が違えど、重責を務めたことに対しての敬意を払うべき」「なんでも感情で反発すべきではない」
「これだから日本人は理性的な議論ができない」
要するに「いろいろあるにせよ、人間として心ある振る舞いをしようよ」ということ。とても正しいように見えますよね。
ですが、本当にそうなのでしょうか。私たちみなが、「おつかれさま」ということが、人として自然なことなのでしょうか。
あなたはパワハラ上司の退職を労えるか?
たとえば。
あなたのことを日々目の敵にして、閑職に追いやり出世させなかった上司の定年退職。
あなたに陰で暴力を振るい続けながら、他の親族には事実を全く知られることなく大往生した夫の最期。
クラスの中で自分にだけ逆えこひいきをしてきた、担任教師の転勤。
そんなシーンで、あなたは相手に「おつかれさま」と言えるでしょうか。そう言うことが「人として当たり前」だと思えるでしょうか。
政治とはそれぞれの主義主張をもとに「よりよき」を目指して、「みんなの道」をえらんでいく営み。そこには当然、「選ばれなかった」存在が生まれます。
「選ばれなかった」存在がもつルサンチマンは、政治における合理的な判断の結果うまれる、もっとも不条理な結果です。
そんな彼らに対して「人間としての振る舞い」を語る資格が、一体だれにあるというのでしょうか。
あなたもいつか「選ばれない」
インターネット、特にSNSの広がりによって「広がりやすい言葉」がより広がりやすくなる現象が加速度を増している現代。
でも、多くの人がためらいなく広げることができる言葉とは、誰も責任を持たずに済む言葉と同義。
その裏にいる当事者たちの切実な叫びを、「空気に合わない」という空気をもって、誰の顔も見えないままに排除していく言葉です。
どうしたって「おつかれさま」と言えない、言いたくない事情がある人がいる。その事実に気づけないことこそが、あなたが選ばれた側にいる証明であり、「正しそうなこと」を言える理由なのです。
これはたしかに感情の話かもしれませんが、「おつかれさま」論もまた、感情の話。そして、この世の中はもっともっと無数の大小「おつかれさま」論であふれている。
だからこそ、どんな事柄についても軽々しく「こうすべき」と言いたくなる気持ちをグッと抑えて、一歩立ち止まってみませんか。その選択が、いつかあなたを救ってくれるかもしれません。
なぜなら、いつまでも選ばれ続ける人なんていないのだから。
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