「ソーシャル老害」の哀しみ。
こんにちは、岡山史興です。「次の70年に何をのこす?」をコンセプトに、70seedsという会社を経営しています。
規模の拡大を目指す経済が行き詰まりを見せる中で、「小さな営み」が持つ価値や可能性を考えるnoteを描いてきました。
さて、最近SNSでこんな声をよく目にするような。
「SNSを自然に楽しめない」問題。
少し前から「Facebookはおじさんのもの」なんて言われていましたが、Twitterでも、
「ビジネスのポジショントークが増えた」
「フォロワーを増やすノウハウ投稿が増えた」
なんて不満の声が目立つようになってきました。
そんな人たちが決まって口にするのは、
「Twitterはくだらないことをいう場であってほしい」
ということ。
でも、それって本当でしょうか?
彼らを見ていると、こう思わずにいられないのです。
「SNSで声の大きい人」が老害化している?
SNSの現状を嘆く人たちは、まぎれもなく「今のSNS」の空気をつくってきた人。ポジショントークも、ノウハウも、だいたいのことは自分自身がやってきたこと。
先を行く人たちを見て、「こうすればフォロワーが増える」と真似してきた人たちがいわゆる「フォロワー」なのだから、これって身から出た錆なのでは・・・?
それを棚に上げてご意見番を気取るのはちょっと違うんじゃないかな・・・なんて思うと同時に、「なぜこうなってしまったんだろう」と考えを巡らせていました。
だって、
彼らはもともと、「カウンター」だったはずなのだから。
彼らがSNSで発信を始めたのは、自分のこだわりや好きなことをみんなと分かち合いたかったから。
そんな「カウンター」だった頃の自分はどこかへ行ってしまったかのように、いつのまにか「権威」になってしまった挑戦者たち。
小さな池で、フォロワー向けの言葉をひねり出すことに忙しくなってしまっているこの姿の先に、本当に「自分のやりたかったこと」はあるのでしょうか。
自分の世界を実現することは、誰かとの間で自分の立ち位置を守ることではなかったはず。
そこには、「ソーシャル老害の哀しみ」があるように見えて仕方がありません。
そう思ったとき、ある事実に思い当たりました。
「声の大きい人」は「声を大きくしたかった人」だった。
誰もがもともと「声の大きい人」だったわけではありません。
まだまだ埋もれている、自分のやっていること、好きなもの、信じる道、それを世の中に認めてもらいたい・・・そんな思いから、発信せずにはいられなかった。
そう、みなはじめは「小さな声の持ち主」だったんです。
それがいつのまにか、過去の自分と同じような「何者かになりたい人たち」の声を潰す側に回ってしまっている。
これってとても悲しいことです。
それは、自分自身を否定すること。
声を上げ続けたことで、自分は評価されるようになったかもしれない。
でもその結果、過去の自分と同じような「小さな声」を否定することになっていたとしたら。
誰かと比べたり何かを仮想敵に置くことが、結果として自分自身がやってきたことを殺す行いなのだとしたら。
この自己否定のエスカレーターには終わりがないと、そろそろ気づいてもいいころなんじゃないでしょうか。
そして、こう言ってみたいと、あらためて思うのです。
ピュアな「好き」が原動力でよくない?
何かをはじめようと思ったときの気持ち、やらずにはいられなかったときの胸の高鳴り。そんな初期衝動に、ピュアに向き合えばいいんじゃないかな、と。
どんな思いや取り組みにも、きっとはじまりの動機があって、それぞれの価値があり、そして、価値には相応の規模がある。
目の前で共感してくれる人、応援してくれる人、仲間になってくれる人。そんな人たちと向き合い続けることからしか、価値は育たない。
無理に大きな声を出す必要はないし、自分を大きく見せる必要もない。
ただ、やりたいことをやれる限りやり続けること、そこにしか道はないんじゃないのかな、と。
今回は、そう思いながら筆を置きます。
願わくば、「権威」にとらわれて哀しみに足をとられる人がこれ以上、生み出されませんようにーー。
(それに、「権威ってダサい」と思ってたんでしょ?)