“10RTインフルエンサー”が取り戻す、インターネットの原点
こんにちは、「次の70年に何をのこす?」をコンセプトにしたウェブメディア、70seedsの岡山です。
最近、インターネットをしていてこんなことを感じることはありませんか?
“拡散”ってダルいときない?
SNSをひらけば流れてくる「バズったらしい」記事。
なんとなく流し見しながら、RTやいいねを押す指先。
ただ、その中身を熟読することは少ない・・・
インターネットの海を無限に流れ続けるコンテンツ、“シェア”する理由がこんなことになっていないでしょうか。
好きでもないのにシェアしてる。
「みんながシェアしているから」
「フォロワー多い人が何か言ってるから」
「この人の投稿をシェアしておけばなんとなく間違いないから」
・・・あれ?でもシェアって、そういうことだっけ?
最初に「シェアしたい」と思ったとき、なぜそうしたんだっけ?
シェアって「共有」のことだったような。
自分の好きなもの、心が動かされたものを見つけたとき。
誰かに伝えたい、という出会いがあったとき。
そんな「好き」を分かち合うための行動だったはずの“共有”。
それが、いつしか“拡散”という言葉にすり替わってしまっていたかもしれない。
“共有”には、主語があって人がいる。
でも、“拡散”には人がいない。
人だと思っていたものが、広げるための「ツール」になってしまってはいないでしょうか。
こうなってしまった一番の理由、それはこういうことなんじゃないか、と思っています。
「みんなが知ってる」至上主義。
知名度は高いほうがいい。
売上は大きいほうがいい。
「みんな」が求めるものがいい。
だから、「みんなが知ってるもの」に乗っからないと不安になってしまう。
そこに正義がある。
・・・本当にそうでしょうか?
「好き」な気持ちはひとりから生まれるものだった。
どんな「好き」も、本来誰かにつくられるものではなかったんじゃないか、と思うのです。
音楽、本、食べ物、映画、アニメ、将棋、F1・・・自分の「好き」は、自分の中から生まれてきたもの。
だからこそ、「好き」が強い人ほど、こんな気持ちを抱えていたことがあるんじゃないでしょうか。
自分だけの「好き」を人に話すのが怖い。
みんなの「好き」と自分の「好き」が違うんじゃないか。
言ったら引かれるんじゃないか。
空気を悪くするんじゃないか。
だからこそ、「好き」を共有できることって、とても貴重だったはず。
そんな可能性に満ちた場がインターネットだった。
リアルな場所や人間関係にとらわれず、「好き」でつながることができたのがインターネットであり、SNSだった。
誰かの目を気にしなくていい。
好きなものを好きと言える。
そして、「同じ気持ちで爆発しそうな仲間」と出会える。
そんなインターネットの「原点」に戻りたい。
だから、“拡散”よりも“共有”を。
何かを広げたい誰かが仕掛ける“拡散”。
だけど、インターネットを本当に必要としているのは、“共有”したい小さな「好き」。
好きなものを「好き」と言えたとき、幸せを感じたことはありませんか?
そして、誰かが発信した「好き」に背中を押されたことはないでしょうか?
だから、今インターネットに必要なのは、
想いのない10万RTより、「好き」の詰まった10RT。
誰かが流した「バズらせるため」のコンテンツではなく、自分自身が小さな「好き」を発信すること。
あなたの1ツイートが、同じ「好き」の10人に届いたとき、受け取った人たちはきっと孤独じゃなくなる。
それは、どんなインフルエンサーの広告ツイートよりも、確実に誰かと「共有」されるコンテンツになる。
それが、ひとりひとりが取り戻す「インターネットの原点」だと思うのです。
“拡散”ってダルいときない?
文・絵 岡山史興