ヒーローのいらない「小さな社会」が産声をあげるとき。
新型コロナウイルスの影響で、生活や仕事の「やりかた」が一変した社会。
特にネガティブな変化に、自分や周りが不安を抱えている人が多いことはきっと、思い過ごしではないと思っています。
大都市以外での非常事態宣言は明けたものの、人や企業が精神的、経済的に受けた傷を回復していくには乗り越えなくてはいけないハードルがまだまだ立ちはだかっています。
なかでも、この間特に感じていたのはこんな不安についてでした。
SNSにはびこる「何かやらなきゃ」症候群。
「世の中が大変なことになっている」
「なにかやらなきゃ」
「でも、何をやればいいのかわからない」
(そんな自分に罪悪感が募る・・・)
そんな声をいくつ目にしたことでしょう。
もちろん、これまでにも世の中をさまざまな災害が襲ってきました。ですが、そのときにこれほど人が(苦しんでいた、ではなく)悩んでいたかというとそうではないように思うのです。
今回のコロナ・ショックでこれほど「何かやらなきゃ」という強迫観念にかられる人が多かったのはなぜか。注意深くインターネット上の言説を眺めているなかで、そこには大きく2つの理由があるのではないか、と考えるようになりました。
①強制的に訪れたオンライン環境の過多。
1つ目はリアルのふれあいがなくなり、日常においてオンラインが占める割合が急激に増えてしまったこと。
自分の意思でインターネットに触れていたこれまでと違い、人の声と接する場所が他にないことでSNSの影響度が高い状態がつくられてしまっているなかでは、世の中の大変な状況や何かしらのアクションを図っている人たちの姿が嫌でも目に飛び込んでくる。
強制的に訪れたオンライン中心の情報環境が、「何かやらなきゃ」症候群を引き起こす大きな要因のひとつめだと思っています。
②無責任な「何かできるはず」メッセージ。
2つめは、どっぷり浸からざるをえなくなったSNS上で繰り広げられる「何かできるはず」という“強い人たち”のメッセージ。
地震や台風など、誰が困っているか/何をすれば役に立てるかが明確な出来事に対して人は等しく無力であり微力ですが、今回のように皆が困っていて/誰もが何かをできるかもしれないときは弱肉強食の論理が働きやすいのです。
さらに、
「あの人は発想ひとつであんなに目立っている」
「あの人の呼びかけにあんなにいいねが集まっている」
といったように、強い声には支持が可視化されるというおまけも付いてくる。ある種スピードと知名度でぶん回す勝負が繰り広げられる中、「自分には何もできない」と思わないことの方が難しいのではないでしょうか。
ただ、ここで冷静になってよく考えてみてほしいのです。
不要不急になっていく「言葉だけの人たち」
今回のコロナ・ショックを受けて、さまざまな人がそれぞれの立場から社会を論じています。
ですが、あまりにも多くの人が発言をすることで逆に情報の価値を等しく下がっているように感じたことはないでしょうか?
なぜなら今は、そんなたわごとに付き合っている余裕はないから。
安全圏からそれっぽいことを言っているだけの著名人がその影響力を下げる中、医療従事者をはじめとした現場で地道な取り組みを続ける人たちへの尊敬は日毎に高まっています。
現場で地道に取り組んでいる人たちや飲食店経営者など身近で困っている人たちを支援する取り組みが全国各地で起こっていることもまた、「言う人よりやる人」へと評価が移っていることを示しているでしょう。
そしてこのことが実は、冒頭で挙げた不安へのひとつの答えでもあるのです。
目の前に広がる「小さな社会」
地元の飲食店を助けるためのエール飯や、医療従事者や福祉現場へマスクを送る取り組み、またポケットマルシェや食べチョクといった通販サービスが取り組んだ一次産業生産者支援などたくさんの取り組みがこの間に生まれていきましたが、着目したいのはそれらが「ヒーロー不在」であること。
呼びかけている側は自分だけでは何もできないというある種の「諦め」があるからこそ、「みんな」に助けを求めているのです。
逆に自分の力で大きなことをやろうとする「ヒーロー」志望者たちの取り組みが結局実現されなかったり、時期を逃してきたのを私たちは見てきましたよね。
この事実が教えてくれるのは「何かやらなきゃ」と悩む必要はないということ。「じぶんだけでは何もできない」ことからスタートすれば、誰かの呼びかける声が耳に入ってくるはず。
大きなことをやろうとする必要はなくて、一人ひとりが身近な誰かのためにちょっとしたアクションを取ることが、気づけば大きな変化につながっている。
具体性のない言葉を吐く「ヒーロー」に寄りかかるのではなく、それぞれが手の届く範囲で支え合い助け合うこと、それこそが今の世の中で起きていることであり、これからを生き抜いていくために必要な「小さな社会」のあり方だと思うのです。
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(極端な話をすれば、少なくとも、悩む時点で誰かのことを思えているので十分なんじゃないかな、と思っています。)