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メイクアガールと恋人救世主論

メイクアガールを見てきました

自主制作アニメで有名な安田現象氏の製作した映画・メイクアガールを見てきました。脚本はまあ…稚拙で幼稚で程度が低いし、正直褒められたものじゃないのですが、結構好きです。
なぜ好きなのかというと、(どこまで意識してるか不明ですが)前述した脚本の不出来さが、かなり意識的に作られてるんじゃないかと考えられるからです。
そういうわけで今回はメイクアガールが何をしたかったのかについて自分なりに考えていこうと思います。
当然ながらネタバレを多く含むので、気をつけてください。

この作品のテーマ

この作品のテーマは、一言で言えば恋人救世主論に取り憑かれた人間への批判だと、私は考えてます。
主人公の水溜明は、友人の「彼女が出来たらバイト先でのパフォーマンスが2倍になった」というほとんど惚気の戯言を真に受けて、彼女を(人工的に)作ることにします。……ですがまあ、そんなことしてパフォーマンスが上がるわけ無いです。馬鹿じゃねえのオメェ。概ねこんな感じの話がずっと作中で展開されます。
現実にこんな極端な人間はいなくても、いわゆる非モテ界隈には恋人さえできれば全てが解決すると思ってるような人間が残念ながら存在するらしいです。当然ながら、そんなわけないのですが。
だいたい、そんなふうに恋人に救世主であることを求めていたら、すぐに関係が破綻するでしょう。相手を対等な人間ではなく、自分を助けてくれる都合の良いだけの相手だと誤認してたらどうにもなりません。
作中において、0号はそんなふうに明の都合を押し付けられて、救世主であることを、聖母であることを求められてしまったというわけですね。

0号は救世主でも聖母でもない

ですが、0号は普通の女の子でした。明に自身の恋人として生み出され、彼を好きになるように設計された彼女は、そのとおりに役割を演じます(彼女は否定するかもですが)。
そうして世間一般の恋人を、明のことが好きで仕方ない、あくまで“普通の女の子”を演じようとする0号ですが、そこで明との齟齬が発生します。明が求めてるのは恋人という名目の救世主であり、聖母だったのですから。
(彼は恋人を持ってたらなんか全てが上手くいく開運アイテムだと思っていたので、ここまでは考えてないと思いますが、ここでは明を恋人救世主論を盲信する哀れな人間のメタファーとして捉えます)

だから0号は恋人ではなく、母親としての役割を本当は求められていた

作中終盤で明は気づきます。自分が0号に求めていたのは、恋人としてではなく、母親としての役割だったのだと。きも。筆者は劇場で声が出そうになりました。

「0号は私の母になってくれるかもしれなかった女性だ!」
「お母さん!? 0号が…うわっ」
今流行りのジークアクス要素です。

前述した救世主にもっとも近い現実の存在はなにか? そう、母親です。母親がもっとも、救世主に近い。誰が言ったか知りませんが、男が本当に求めてるのは恋人ではなくセックスできるお母さんだと言います。建前が一切ない世界においてはある程度正しい言説でしょう。

だから0号は壊れた

0号は劇中最終盤にて、明にスタイリッシュ暴力を振るいます(スタイリッシュすぎて面白いですが、それはどうでもいいです)。
あくまで対等の、辞書的な意味での、世間一般の常識的な意味での恋人として生み出されたはずなのに、一個の個人として扱ってもらえず、救世主として、聖母として、母親としての役割を都合よく求められ、挙げ句それが出来ないから捨てられたらキレてしまうのも当然です。こんなにも好きなのに、その気持ちを偽物扱いされ、僕の欲しかったものはこれじゃないと言われたら、どんな人間でも傷つくでしょう。

だけど明は反省しない

ですが明は反省しませんし、自分のやったことがいかに残酷かついぞ理解することはありませんでした。
ある種、仕方がない面もあるかもしれません。作中で明言こそされてませんが、おそらく彼は水溜稲葉に生み出された第2人類のロボット野郎なのですから。
その伏線はあちこちにあります。彼が奇行こそしますが、人間としては限りなく薄っぺらで面白みのないキャラクターなのも伏線の一部なのでしょう。こんなにも変なことをしてるのにそれが魅力に繋がらないキャラクター造形も逆に珍しいんじゃないでしょうか。
(先程の、明を恋人救世主論を盲信する哀れな人間のメタファーとする言説を採用すると、とてつもなく痛烈なメッセージが浮かび上がります)

一人称小説的な映画

この物語は、基本的に明の視点で進みます。そして、明は作られた人類であることも相まって、薄っぺらで幼稚で面白みがない、どうしようもないやつです。
そんな歪んだ、ある種の信用できない語り手である彼のレンズを通して見た世界は、やはり歪んでいるに違いません。
恋人救世主論を信奉する人間にとっては、日常において自身に降りかかる問題が全て“自分には恋人がいないからだ”に収斂してしまうように(これ流石に極端すぎる言い回しかもですが)、彼のものの見方も非常に偏っているのです。
偏ったものの見方をしているゆえに、彼に見える世界はひどくつまらなくて、稚拙で幼稚で程度が低いのです(人のこと言えない? そうかも……)。
つまり、この脚本のレベルの低さはすべて、彼の人間としてのレベルの低さをそのまま反映しているということなのです。

トラペジウムって映画があるんですけど

トラペジウムというアニメ映画があります。ツイッターのメイクアガール界隈とトラペジウム界隈の人間が若干被っているのはローカルな話題なので割愛しますが、トラペジウムもまた、メイクアガールと同一の、語り手のものの見方が映像を歪めている映像作品です。
例えば、主人公の東ゆうが自身の打算でボランティアをしていた公園に打ちのめされ視界が晴れてから向かうと、そこは曇った目では気づかなかったがとても美しい場所だった……という原作のシーンを、映画版では曇った目だとのっぺりした作画、視界が晴れてからだと写実的で気合の入った作画を出すことで表現しています。
他にも、アイドルをやってる期間よりも友人たちと普通に過ごした時間のほうが長いにも関わらず、その普通の部分は東ゆうの視点ゆえにダイジェスト的に編集されていて、だけど友人たちとしてはそちらの期間のほうが重要であったり……
メイクアガールは、ついぞ視界が晴れることなく終わるので、ずっとおかしな映像と脚本が続いてるわけですね。

まとめ

ですので、本作の頭がおかしくなりそうな幼稚で稚拙で程度が低い脚本は、おそらく意図的に仕込まれたものなのです。
恋人救世主論を信奉し、恋人に母親の役割を求める哀れな男と、そんな相手を好きになってしまったけれど、だからって救世主になれるわけでもない普通の女の子の関係が破綻する。だけど男は最後の最後まで反省しないで、女の子は母親に作り変えられてしまう……それがメイクアガールなのです。
作中で明確なエクスキューズが示されないゆえに、安田現象氏は歪んだ物語を観客の視点で批判(批評)させることで、その代わりにしようとしたのです。
私はこういう視聴者参加型コンテンツ(?)が好きなのでメイクアガールは好きです。……人にはオススメできませんが。





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