不意に寝違えた
喫茶店に向かい合って座り、運ばれてきたお皿の上のちいさいケーキのフィルムを剥がす時、人はそのフィルムに癒着したまま持っていかれてしまういくばくかのクリームやスポンジのことを思って、すこし緊張するでしょう。たくさんの人のそのちいさな緊張を寄り集めて、瓶に詰めて香水やなにかにして、値札を貼って売っているのがこの百貨店の地下の化粧品売場なのです。私は去年まで、そこに勤めていました。ほ、ん、と、う、のことに気がついてから辛くなって、毎朝職場に行けなくなって、作業長に相談したら、そんなに化粧品売場が辛いなら、上の階に上がってみたら、例えば5階に行ってみたらどう、あそこでは食べ物を扱っているでしょう。と言って下さったんです。個々で沈黙する流動のなかに身を置いて手元の簡素な操作をまたこちらも沈黙しつつ行うことはあなたの弱った精神の牙を再び磨くのに丁度いいだろう、と言うんです。そうして作業長に書いてもらった転職手続書を握りしめて、新しい生活にすこし期待しながら百貨店の大理石の螺旋階段を駆け登って5階に来たのが8月のことです。
何も変わらなかった。結局のところ私は、ちいさくて細々とした化粧品を売る仕事から、ちいさくて細々としたケーキや紅茶を売る仕事に異動しただけでした。喫茶店の席に座ったあわれな人々の、優しくこまやかな緊張や、気配りや、瞼が起こす瞬きの温度を、ホールを行き来するたびにこっそり拭い取って、ミルク瓶に集める仕事に追われています。私がミルク瓶を持ってテーブルの間を縫ってのろのろ歩く様をご覧になったでしょう、あれはお客の珈琲に甘味を足すためのものでは無くて、店側がお客の生の息吹を拭い取って集めてしまうための瓶と、その歩行なんです。ミルク瓶のなかみは週が明けると別の従業員に引き取られて、地下に行きます。真っ白いパウダーに混ぜられたり、香水に絞られたり、人々の優しさが生んだ魂の欠片がそうして、ただ顔貌を繕うための練り物の一部になって日の当たらない地下で売られているこの百貨店の現在に私は耐えるこ
急に彼女はそこで発話を区切り、ぐっと唇をつぐんで黙った。我々のテーブルの脇を、猫型の配膳機械がさして意味の無さそうな歌を発しながら通過していった。彼女はまるで天敵に狙われた獲物のように、テーブルの上の食べかけの白海老のスープへ眼球を固着したまま少しも動けなくなってしまった。かすれ声の彼女の話に傾けていた自分の耳には、食器の響く音、店内の家族連れのざわめきが還ってきた。百貨店の8階、レストランフロアの中華飯店は休日の昼時らしいやわらかな賑わいに満ちている。
『ご注文のお食事をお持ちしましたにゃん』
少し先の4人がけのテーブルに着いた配膳機械はそう告げた。窓際に座っていた誰かの母親らしい女が身を伸ばして機械から料理の皿を受け取った。自身の身体から皿ひとつぶんの重みが無くなったのを計測すると、配膳機械は音の上で完全な礼をし、再び軽快な歌を発しながら厨房の方へ帰っていった。自分は温かさが残っている茶碗蒸しを一口食べた。彼女はまだ動けないようだった。瞬きすらもせずに右手で蓮華をかたく握りしめて、円い白海老のある一点を睨んでいた。一体なにが彼女をそうさせているのか、自分には判然としない。百貨店に対する疑惑を誰かに聴かれることを恐れているのか、しかしそうだとしたら、彼女は自分とこうして会う場所に百貨店のレストランを選んだりはしないはずだった。
「大丈夫ですか?」
「はい。」
声をかけると、彼女は蒼白の笑みを浮かべてようやく瞬きをした。長い睫毛が頬に落とす陰と黄色い中華飯店の照明のせいで、自分よりすこし年上なだけのはずの彼女は、駅で待ち合わせた時に教えてくれたその年齢よりも大分老けて見える。
「あの、あれはただ食事を配膳しているだけなんじゃないですか。」
自分は少し声を抑えてこう続けた。ーー何も、あなたの言う喫茶店のミルク瓶とあの配膳機械が、同じ働きをしているとは限らないじゃないですか。
彼女は自分の目をいちど見た。そして蓮華をかたく握ったまま呟くように、あのかすれ声で答えた。
「いいえ、きっとあれは私たちの魂のかけらを吸いました。」
「そんなまさか。」
「本当のことは何も判らないじゃないですか。本当のことは。」
「本当のことって何ですか。」
「だから、本当の、真実です。本当のことというのは、ほ、ん、と、う、のことです。」
本当、という単語を一音ずつ口にする時、彼女は目をやや見開いて、その頭は鳩のように前のめりに揺れた。
「僕にはよく判らないけど、あれはただの配膳機械でしょ。」
彼女は白海老のスープに目を落としたまま、それを蓮華で啜り、こちらを見ずに小声で話を再開した。
「ともかく、私はこの百貨店を出たいんです、助けてください、知人には頼めませんから、あなたに。どれだけでもお礼はします。どれだけでも。私の父は今は山の方に住んでいますけど、昔は良かったんです。今も私たち不自由していないのです、だから少しの職さえあれば良いのです、ともかく加担したくないので、この悪しき吸血鬼のような百貨店からはなれて、たとえば細々した禽獣との通話や甕の底の検査のような、今に機械に取って代わられそうな地味な仕事に従事できたら、私の精神の角の清潔にとってどんなにいいかって判りません、どうかお願いします、お願いします、あなたは私の、知らない人でしょう。」
自分は中華飯店の会計を済ませて、百貨店の6階の靴下屋で秋物の靴下を二足買った。店を出るともう夕方の陽になっていた。金色に染まる並木通りを抜け、いくつかの信号を渡った先、雑踏と歌声の響く駅舎が見えた。