燃える船
一章
物心がついた時ころには、すでに小さな船の上で生活していた。辺りには果てしないコバルトブルーの海が広がっている。私が言葉を覚えた頃、お父さんとお母さんは、たまたま側を通りがかったキラキラと装飾がたくさん着いた、大きくて見るからに豪華な船に自分たちの船を捨てて颯爽と乗りこむと、私を置いてそのままどこかに行ってしまった。
「お父さーーん!!!お母さーーん!!!」
ありったけの声で叫ぶけれど、大きな船からはなにやら楽しげな音楽が鳴り響いていて、私の声はむなしくかき消されてしまう。それでも、負けじと大きな船の後を必死に追いかけてみるも、私の小さな船とはスピードがあまりに違いすぎて、あっという間に離されてしまった。楽しげな音楽がだんだん小さくなっていく。これはもう追いつけそうにもないと、直感的に悟った時だった。かすかに聞こえていた船の音も完全に消え、辺りには静けさが戻った。水面にはさっきまで両親が乗っていたちいさな船がポツンと浮いているだけで、一人取り残されてしまった私は残された両親の船がどこかに流されてしまわないように、ぐっと手を伸ばして船の端を掴み、たぐり寄せるとひとまずロープで自分の船の後ろにくくりつけた。急な出来事と、あまりの心細さに、もはや呆然とするしかなかった。ふと、全身の力が抜けてしまったみたいに、膝を折って座り込む。頭の中にはたった今あった夢のような出来事が、何度もくり返し流れていた。私を置いていこうとする両親の背中、そこに向かって、必死に手を伸ばして叫ぶ自分の声が頭のなかに反響している。もしかしたら、悪い夢でもみているのかもしれない。そんな風にも考えてみるが、その考えはゆらゆらと小刻みに動くいつもの船の感覚によってすぐさま否定されてしまった。現実というものは、時々ひどく生々しいところがある。視界に入ってくる強い光、色、肌を撫でる風、鼻につんとくる潮の匂いが、これは決して夢なんかではないと思わせるほどに鮮明だ。
「これからどうしよう。どうやって....」
生きていけばいいのだろう。そんなことを考えたところでなにも浮かばな買った。ただ漠然とした不安感だけが、ひたすらインクの染みのように広がっていくだけである。全身に見えない重しのようなものに、突然のしかかられた気持ちになる。気がつくとポタ、ポタ、と大粒の涙が私の膝を濡らしていた。とっさに涙を拭うけれど、それはなんの意味もない行為のように感じた。なにせ、次から次へと流れでててくるのだから。
そう思った次の瞬間、かろうじてせき止めていた分の涙も、いっきに溢れだしてきた。私はなにか間違ったことでもしたのだろうか。これまで父さんと母さんは優しかったし、私もちゃんということを聞いてきた。なにも悪いことなんてしていない。こんなバチが当たるようなことはなにもしていないはず。なのに、この状況はあまりにも酷すぎやしないだろうか。どうして、今自分がこんな状況に置かれているのか。やはり、そんなことをいくら考えてもわかるはずもなく、ただあれこれ色んな考えがぐるぐると頭の中を巡っては消え、巡っては、消えていくばかりだった。一度流れ出した涙は止まりそうにもない。私は次第に内側から湧き起こってくるものに、どうにも耐えられなくなり、とうとう大きな声をあげて泣き出した。これでもかと声を大きくして、叫ぶように、泣いて泣いて、泣き続けて、気持ちを吐き出すようにわあっと叫んでみたら、喉がつまって嗚咽をあげた。そんな無茶苦茶な泣き方をしているうちに、だんだん喉がヒリヒリと痛くなってきて、きっと、いま口の中をのぞいたら真っ赤に腫れているに違いない、そんな事がふと頭によぎり顔をあげてみると、海はとても穏やかで、いつもと変わらない景色が広がっていた。
私のちいさな船には狭い船長室が一部屋だけある。私は今もそこで寝泊りをしている。朝、カーテンを開けると、真っ青な空が視界一面に飛び込んできて、この瞬間が気持ちがいい。波も凪のように穏やかなので、お腹の空かせた私はひとまず魚を捕ってくることにした。幸いなことに、両親は魚の捕りかたや、嵐が来たときの過ごし方など、船の上で生きていくのに必要最低限のことは教えてくれていた。それから数冊の本とともに、文字の読み方や、火を起こすのに必要な道具もくれていた。船での生活は、その日の天気によって左右されるものだと父さんもよく言っていた。
「....どんな状況でも、お腹はすくのね。獲れるうちに魚くらいはストックしておかなければ」
幸いなことに、泳ぎは得意だった。食いぶちさえ余裕ができれば、ひとまずはなんとかなるだろう。最初の頃は、それしか思い浮かばなかった。だけど、ただ食って寝るだけじゃどうにも味気ない。食いぶちが確保できて、余裕が出来てきた頃の私は、次第になにか新しいことを始めたいと思うようになってきていた。とにかくいろんなことを学んで、試してみたい。誰かに話を聞けたらいいのだけど...とはいっても、自分の聞きたい話をしてくれる人なんて、そうそう都合よく目の前に現れてくれるはずもなく、なにかを学ぶにしたって手助けとなってくれるものといえば本くらいだった。だけど、両親が残してくれた本は、古い子供向けの物語で、昔から読んでいた本なので、今手元にある本はすでに読み飽きてしまっている。どうにか新しい本を入手したい。なにか私の知らないことが書かれているものなら、なんでもいい。けれども、しばらくは進展のない日々が続いた。その間は天気の様子を観察したり、自分の思ったことや、その日の日記を書くようにしたり、風の向きや、匂い、昼の光の変化や夜の闇をも見つめた。
そうして、たくさんの月日が流れていった。どのくらいが経ったのだろう。ようやくひとりで過ごす生活も生活も型についてきたころ、私はこの海の世界というものを、少しだけわかりはじめてきていた。海に漂っていると、たまに他の人に遭遇することがあったからだ。そのほとんどは、私と同じように、自分の船に乗っていて、大抵の人はたった一人でこの広い海を漂っているということがわかった。そういう人たちと出会うと、私は嬉しくなって躊躇なく声をかけた。だけど、その反応はまちまちで、大声で叫ぶ私に気付いて好意的に手を降り返してくれたり、挨拶をして向こうから近づいてきてくれることもあれば、なにかに怯えたように逃げてしまう人や、一瞬だけ嫌な顔をして、何事もなかったかのように無視をする人もいた。そういう人は、私に気付くとすぐさま船の向きを変えて、颯爽とどこか違う方へ行ってしまうのだった。ある時、いつものように海を漂っていると、遠くに無人の船が浮いているのを見つけた私は不思議に思って、その奇妙な船に近付いた。近づくとすぐに、無人ではないことに気がついた。その船にはちゃんと人が乗っていたのだ。だけど、その船の持ち主であろう人物は船の床に倒れていた。
「あの、大丈夫ですか?」
私は自分の船をぴったりと横につけると、その人の肩をぽんぽんと叩いて声をかけた。すると、ううっと微かな唸り声をあげて、その人はうつ伏せの状態から仰向けになった。顔は肩まで伸びた髪の毛で隠れてよく見えないが、身体つきからして、まだ幼い少年のようだ。眠っていたのか気絶していたのかはわからないが、少年の身体に目をやると、そのあばら骨は浮き出て、手足も棒っきれのように痩せ細ってしまっている。
「いっ、生きてる...?」
あまりの状態にそう言うと、少年は少しだけ口を開けた。なにかを喋ろうとしている。
「...て」
「え?」
「なにも....食べ.....くて...お腹す....た」しぼり出すような声で少年は言った。
「ちょっと待ってて」
息があることに安堵した私は、ひとまず少年を座らせて水を飲ませた。そして、焼いた魚を小さく砕いて食べさせてやると、少年はまた眠ってしまった。相当衰弱していたのだろう、少年はそれから深い眠りに落ちたようでしばらく目を覚まさなかった。数日が過ぎた頃、ようやく彼が目を覚ました。
「ここは...」
「おはよう。ずいぶん眠ってたわね。もう起きないかと思っちゃった。ここは、わたしの船長室だから安心して。君の船もちゃんとくくりつけてあるから。身体は大丈夫?」
「はい...おかでさまで、助かりました。えっと」
「元気になってよかったわ。私はミーナ」
「ありがとう、ミーナ。ぼくはジョン」
話をしてみると、ジョンはまだどこか幼さが残っているものの、しっかりとした物言いをする知的で博識な少年だった。歳は私と同じくらいのように思われたが、正確な年齢というのはわからない。というのも、私は自分の誕生日を知らないのだ。ジョンも知らなかった。ただ、本のなかで、生まれた日を誕生日と呼び、その日には一歳、歳をとるという文化があることだけは知っていた。きっとそれでいうと私とジョンは同じくらいの年齢なのだと思う。ジョンは自分の知っていることを教えてくれた。生まれた時には、すでに海にいて、今乗っているちいさな船に乗っていたこと。ジョンは生まれた時には、すでにお父さんとお母さんはいなかったらしい。代わりにおじいさんがいて、そのおじいさんから色々なことを教わったという。だけど、ある日大きな嵐に見舞われて、その時にはぐれてしまったのだそう。それからは、おじいさんを探しながらこの海をひとりで漂っていた。そうして、偶然私と出会ったという経緯だった。私はジョンに自分のことも包み隠さず話すことにした。といっても、私の知ってることはジョンに比べたらとても少ないので、フェアにはならないような気もしたのだけれど。私はジョンと同じように生まれた時から海の上にいたことや、その頃からずっとこの船に乗っていること。そして、お父さんとお母さんがある日大きな船に乗ってどこかに行ってしまったことなどを話した。すると、今まで黙って聞いていたジョンだったが、困惑の表情をにじませて言った。
「ぼく、その船のうわさを聞いたことがあるよ」
「うわさ?」
「そう、君のお父さんとお母さんが乗って行ったっていう。その船は、きっとトイトニック号だよ」
「トイトニック号?」私はばかみたいに相手の言葉をくり返した。
「トイトニック号っていうのは、この海のなかで有名な船なんだ。じいちゃんから聞いたことがある。大きくて豪華な船で、その船は音楽隊や一流のシェフも雇ってるって。設備も整っていて、その船に移ればひとり一部屋支給されるらしい。毎日三食付きで、毎週週末にはごちそうが振る舞われてパーティーするんだって」
「へえ、ずいぶん、いい暮らしなのね。こんな小さな船じゃありえないことばかり。じゃあ、私があの日見たのは、そのパーティー真っ最中のトイトニック号だった可能性が高いってことね」
「おそらくね。その船は、基本的には自分から望めば誰でも移り住めるらしいよ。条件は、まず自分の船は捨てること、一度乗ったら降りてはいけないこと、そして船長のいうことは絶対、この三つだって」
ジョンの話が本当で、もしあの日の船がトイトニック号で間違いないのだとすれば、もうお父さんとお母さんは、戻ってくることはないだろう。私は、自分の船の後ろにくくりつけたもう一つの船を見つめがら、なんとなくそんな気がした。なぜあの日、両親がほとんど反射的にあの船に飛び移るようにして行ってしまったのか。そのことについて私は長い間ずっと疑問だったが、お父さんとお母さんはきっとトイトニック号のことを知っていたのではないだろうか。そして、その機会がくることを、密かに願っていたのかもしれない。もし、その船が通ったら、真っ先に飛び移ろうと事前に話し合っていたという可能性もありえる。そう考えると、あの光景にも説明がつく気がする。聞くところによると、どうやらいい暮らしのようだし、きっと両親はそんな生活に憧れていたのかもしれない。
「ねえ、君はこれからどうするつもり?」黙りこくる私に、ジョンは遠慮がち聞いた。
「別にどうもしない」
「どうもって、えっ、ここはご両親を助けに、トイトニック号を探し出す旅にくりだす流れじゃないの?」
「ださないわよ。どんな旅よそれ。そもそも、すでに海にいるのよ。これ自体が旅みたいなもんよ。そりゃ、あの船が一体なんだったのかってところは、突き止めてやりたいけど、それにしたってこんな広い海を探すのはそう簡単じゃないわよね。大体、トイトニック号ってのは一度乗ったら降りられないんでしょう?」
「ま、まあ、そうらしいけど...」
「じゃあ、そんなもん、無理ね」
私はゴロンと船の上に横になった。なんだか、ばからしくなってきた。今までの数々の苦労を思い出して、やってらんないといった感じである。
「トイトニック号だかなんだか知らないけど、乗りたいなら、乗ったらいいじゃない。私だって、そんな楽な生活送れるんなら乗るかもね」
「君ってば、冷めてる。というかひねくれ者だ」
「おほめいただき光栄だわ。だけど、私はもともとこんな性格よ。自分の力が及ばないことについて悩んだって、仕方のないことだわ。どうしたって無力だもの。それに、もうずっとこんなサバイバルな生活をしてるのよ。このくらいこざっぱりしてなきゃ生きてけないわ」
「それもそうだね」
ジョンはもうなにも言ってこなかった。あの日、両親はまだ小さかった私を連れていくこともできたはずなのに、そうはせずに意図的に置いていった。私が邪魔だったからだろうか?それとも、自分の人生は自分で生きろってこと?親といっても私ではない人間という意味では他人であるし親もひとりの人間だ。自分の人生は自分で選んでいくもの。その選択肢を奪う権利は、たとえ親にも、この世の誰にもない。きっと、だから置いて行ったのだろうと私は推測した。あれはあれで親なりの配慮だったのかもしれない。とはいえ、やっぱり邪魔だっただけかもしれないけれど。私は、身体をゆっくり起こした。
「大事なのは、そんなことじゃない。私、長いこと一人で海で生きてみて、生きてくのに必要なものって、実はそんなに多くのものは必要ないってわかったの。魚はよく獲れるし、生活に必要なものは、もうわりかし揃ってる。ランプに毛布、冷凍庫。たまに商人の船が通るでしょ?その時にほとんど調達したの」と、ミーナはどこか誇らしげに言う。
「へえ、さすが、海で生き残ってるだけあるね。なんだか君のことが頼もしく思えてきたよ。僕はどちらかというと、じいちゃんから色々なことを教わって、その教えをアテにして生きてきたんだけど、君は自分の感覚が指針になってるみたい」
「指針、そうかもしれない。それに真珠だってたくさん獲ってきたわ。これね、案外高く売れるのよ。でも、綺麗だから、たくさん集めてネックレスにでもするつもりなの」
「へえ、そうだ!ねえ、そういうのが好きなら、今度ミナトの街船に行こうよ」
「ミナトの街船?」
「そう、本で読んだことない?かつてまだ陸があった頃、陸には街があって、そこにはレストランとか、洋服屋さんとかいろんなお店があって、買い物したり、食事したりできるって。バーやカジノなんかもあるらしいよ。そういったサービスを提供してる街のような船が海にもあるんだ」
「へえ、すごく楽しそう、さっそく行きましょう!」
こうして私とジョンは、ミナトの街船にいくことになった。
二章
ゆらり、ゆらりと海に流し流され、目的地に向かう漂流の旅の途中。
- とある月夜の晩、二人はお互いの船を横に並べて止め、甲板に寝そべってミーナが月を眺めていると、同じく甲板に出てきたジョンがこんなことを聞いてきた。
「気になってたんだけどさ、君っていつも大量に魚を取ってくるけど、あれってどうやって獲ってるの?」
「海に潜って、モリで突くのよ」
「え、網じゃなくて、潜ってたの!?」
「ええ。網をかけておけば、確かに引っかかることもあるけれど、かからないこともあるでしょ。こんなちいさな船だと網を仕掛けて引き上げる作業ってなかなか大変なの。それに、そうまでして期待をかけていざ網を引き上げた時、一匹も魚がかかってなかったらどうするの?そんな賭けごとのようなこと毎度毎度やってらんないわ。そんなことするより、日が高いうちにさっさと潜って、直に仕留めたほうが確実でしょ」
「それは、そうだけどあまり泳ぎは得意じゃないんだ。君は誰かに教わったの?」
「教わったことはないわ。というか、あなたに言われるまで、あまり意識したこともなかったわね」
「え、でもそれじゃあ、どうやってるの?」
「どうやってと言われても、本当にただ潜って、仕留めるだけで....適当よ」
「適当だって?それで魚をいつもあんなにごっそり捕まえてくるなんて、信じられないや」ジョンは驚きの表情を浮かべた後、けらけら笑いながら言った。
「人を野生児みたいに!あなただって出来るでしょ」
「ミーナ、ぼくとの出会いを忘れた?君みたいにごっそり魚を捕らえられるようなら、あんな餓死寸前になんてなってないよ」
「それもそうね。じゃあ、ジョンは今までどうしてたの?」
「これを使うのさ」と言って、指で丸をつくってお金のポーズをとって見せる。
「でも、商人にはいつでも出会えるわけじゃなくて、一日に何度も商人の船とすれ違う時もあれば一度も見かけない日だってあるんだよね」
「ええ、しかも必要な時に限って、なかなか巡り合えなかったりするもんなのよねえ...」
「そう!まさにあの時はついてなかったなあ。何日も商人と出会えなくて、気がついたらふらふらして。もう死ぬかと思ったんだから。でも、ミーナ、もしあれが君と出会えるためだったのだとしたら、ぼくはとてもラッキーだったと思うよ」
「そういえば吉凶は糾える縄の如しって、あなたの貸してくれた本にあった通りね。私にとってもジョンに出会えたことは幸福なことよ」
それからも二人の旅は続いた。途中でお互いのお気に入りの本を交換して読んだりその感想を話したりもしたこともあった。話していくうちに、ミーナはあることに気付いた。ジョンはなぜか本には載っていないような情報までとても詳しいということ。というより、本に乗っていない情報まで付け加えたように知っていること。ジョンが海のことについて、そしてこの海社会について教えてくれる代わりに、ミーナはジョンに魚の獲り方を教えようとしたけれど、どうやら水に潜るところからすでに苦手らしく、あえなくして指導は終わった。その代わりといってはなんだけれど、高く買い取ってくれる商人の見分け方なんかを教えることにした。ある時、ジョンはおじいさんからいろいろなガラクタを貰ったといってミーナに見せると、それらはとんでもなく貴重な品物だということが判明したからだった。
「ジョン、これガラクタなんかじゃないわよ!とんでもない貴重品....。なんでこんなもの大量に持ってるの?」
「そうなの?でも、前にいくつか売ったけど大したことなかったよ」
「しっかり交渉すれば、それなりの金額になるものよ。まさか、商人の提示してきた値段でホイホイ売り渡してきたんじゃないでしょうね?」
一瞬固まったジョンの顔を見ると全てを察したミーナはもったいないと仰々しく嘆いた。彼が一度、やつれて倒れていたのも納得というものだ。ジョンはどこか危機感がなくて気が抜ける。知識があることと、現実を生き抜く力は、おそらくべっこなのだろうと思った。この調子ではおじいさんも相当心配したことだろう。だから、いつかこうして孫とはぐれてしまった時のために貴重品をいくつも渡しておいたのかもしれないと思ったのだった。
「呆れたものだわね...」
「うん?ぼく何かした...?」
「いいえ、あなたは大物だと言ったのよ」ふり返ったミーナはにこりと笑った。
それからも二人のゆるやかな漂流の旅は続いた。それぞれの船を真横に止めたまま、夜は満点の星空を寝転んで一緒に見上げてたわいもない話をする夜もあれば、時には商人から買い取った古いワインを開けては酔っ払い、二人ででたらめに歌を歌って過ごすこともあった。ある時ジョンがなんとなく歌って聴かせてくれた歌の中に、ふと聞き覚えのある曲があり、ミーナは懐かしい気持ちになった。音楽は感情を呼び覚ますという。この懐かしさは、いつ頃の頃だっただろうか。そして今この時が、また新たに記憶に刻み込まれてゆくことを思うと、どこか嬉しいような、切ないような気持ちにもなった。ジョンは最初に出会った時の半ば死にかけの状態から比べると、最近はとてもよく笑うようになった。性格や生まれも育ちも違うものの、私たちは元来陽気で、明るい人なのかもしれないとすら思える。友達のような、兄弟のような、そんな関係が心地よくて、こうして過ごすうちに私たちの友情は育まれていった。そうして何ヶ月にも渡る漂流の末、ようやく私たちはミナトの街船を発見した。
「ねえ!ジョン、あれじゃない?」
ジョンに声を掛けると彼も同じ方を向き、遠くに見える大きな船を確認する。
「うん、間違いないと思う」
私たちはようやく現れたミナトの街船に歓喜し、船を速度を上げて、目的の場所まで前進させた。
私たちはミナトの街船の近くまで来るとさっそく、それぞれ自分たちの船を停留所に停めた。実は船から降りるのはこれが初めてだったミーナは、なんだか少し恐ろしく思えて、少し戸惑ってしまった。そうして躊躇するなか、ふと視線をあげるとすでに船から降りて、ミーナを待っているジョンの姿が見えた。ミーナは意を決して一歩を踏み出すと次に足を付けた場所は大きな架け橋のようになっている鉄板の上だった。鉄板は上へ上へと続いている。この先に入口があるのかな?と言うジョンが隣を歩き、二人の足音がカンカン、と鳴り響くのを聞きながら、しばらく登っていくと、だんだん上の方に景色が見えてきた。二人は自然と無言になり、ひたすらその鉄板の道を上りきると、ミーナは見えて来た光景に釘付けとなった。目の前には、芝生が広がっていて、ミーナよりもまだ幼い子供たちがかけっこをしたり、戯れて遊んでいるのが見える。さらにその奥の方にある通りには赤い看板のカフェや、なにやらお洒落なブティックのお店、カラフルな雑貨店などがずらりと横並びに立ち並んでいて、たくさんの人達が行き交っている。それも、私とジョンと同じくらいの見た目の人から、それよりももっと大人の人、御老人の方までさまざまだ。さすが街というだけあって、そこは本で本で見た通りの、まさに「街並み」が広がっていた。それにこんなに人がたくさんいるのも今まで見たことがなかった。初めて見る光景にミーナは圧倒されてしばらくその場に立ち尽くして、あたりを見渡していると、隣にいたジョンが声を掛けた。
「ミーナ!すごいね、さっそくいってみようよ」
「うん」
二人はひとまず歩き出したが、目の前に広がる大きな芝生を突っ切るのではなく、その周りをくるりと囲むようにある通りからなんとなく歩いていく。芝生の周りにはところどころに木が生えている。木、というのを実際に見るのも初めてだった。本でしか知らなかった世界が、今実際に目の前にあることに、ミーナは感動していた。ジョンもどこかそわそわと落ち着かない様子で辺りを見回している。すると、「そこのお二人さん」と呼ぶ声が聞こえた。振り向くと、通り過ぎようとしていたお店から、店の人が顔を覗かせ、こちらに話しかけていた。灰色の髪の毛をした丸々と太ったおじさんと目が合うと、おじさんは人懐っこい笑みを浮かべた。さっきから何か甘い香りがすると思っていたけれど、このお店からかもしれない。
「お嬢さん達、ここは初めてかね?」
「はい、そうです」
「どうだい、ちょっと見ていかないかい?」
その言葉に誘われるように二人はお店の中を見てみると、中には薄い紫色と白のストライプの壁に白黒のチェス盤のようなチェック柄の床、そして、入り口のところにはキャンディーのオブジェがある。どうやらお菓子屋さんのようだ。
「せっかくだし、見て行こう!」と、ノリノリのジョン。
二人はお店の中に入ると、わあ、と声を上げた。壁際に大きな透明なガラスの瓶が横一列に並べられ、中にはそれぞれ見たことのないカラフルなグミやキャンディー、チョコレートなどの菓子が入っていた。店内に流れている楽しげな音楽に乗せて「かわいい!見てジョン」とミーナがテンション高く言うと、「前にある袋に、好きなのを入れるといいよ」とおじさんが答えた。
二人はさっそく袋を一枚とり、そこにそれぞれ好きなお菓子を入れていく。すると途中でミーナは大事なことに気がついた。
「あ、ねえジョン、私そんなにお金もってないけど、これっていくらなのかしら」
「うーん。そういえば、値段とか書いてないね」そう言って二人は辺りを見渡していると、会話が聞こえたのか、おじさんがこちらに振り向いた。
「お金はいいよ。せっかく初めて来てくれたんだから、お店からのプレゼントだよ」
「え?でも、そんなわけには」
「いいのいいの、もう袋に入れちゃったことだし。美味しく食べてね」
「本当?えっと、それじゃあ、ありがとう。おじさん」申し訳ないと思いつつも、二人はお礼を言うと、人の良いおじいさんの笑顔に流されるようにお菓子の入った袋を持って、そのままお店を後にした。お店から出てしばらく歩いた先で、二人は思わず顔を見合わせる。
「ねえジョン、ミナトの街船の人ってとても太っ腹ね。ここでは、どのお店もあんな感じなのかしら?」
「いや、さすがにそれはないんじゃない?たまたま、おじさんが機嫌が良かっただけとか」
「でも、そんな機嫌でお代をまけてもらうなんてことある?」
「いいや、僕もこんなの初めてだよ。海で商人との取引では、必ず何かと交換だったのにね」
「そうよね。今回はたまたま、あのおじさんが太っ腹だっただけで、普通はなにかと交換しなきゃいけないはずよね。でもそうなると、私たちたいしてお金持ってないのよね。ここにくる間、全く商人と会えなかったもの。魚を獲るのにお金はかからないもんだからって、今までそんなこと考えたもしなかったわ。もしかして、こっから先、どこのお店に入っても、たいしたもの買えないんじゃないかしら」
「僕も...蓄えをするって、こういう時のために必要なことだったのかも。本には貯金をしろとか、投資をしろとか、そんなことが書いてあるのもあったけど、それを何のためにするかってところがいまいちわからなかったし、全く面白くない本だったからあまり読まなかった。そういえば、じいちゃんは、あんな本ばかり持ってたなぁ」
私たちは手にしたキャンディをそれぞれに頬張りながら、お互いにペラペラと好き勝手に喋りながら歩いていると「そこのお二人さん!」とまたどこからか声がした。振り向くと、今度は黄色いシャツのお団子ヘアをしたお姉さんが風船を持って立っていた。
「こんにちは、お二人さん。もしよかったら、これをどうぞ!」
そう言ってお姉さんが私たちに差し出したのは、『招待状』と書かれたカラフルで楽しげなカードだった。
「これは?」
「オペラ座・クラウド・ソレイユの招待状よ。ここの通りをまっすぐ行ったところにあるオペラ座で、この後ショーの公演があるの。招待状があれば、誰でも無料で参加できるから、ぜひ行ってみてね!」
そう言い残すと、お姉さんはじゃあねと、どこかへ行ってしまった。
「ショーだって。なんのショーかしら?」
「ううんと、ここにサーカスって書いてあるよ」とジョンが指をさす。
よく見てみると、『オペラ座クラウド・ソレイユ・サーカス公演』とあり、下の方には大きな球に乗った鼻の長い大きな動物とその横にピエロのイラストが描かれていた。
「本当だ。サーカスだなんて、そんなの見たことない。それにこんな動物も初めて見たわ。あのお姉さん、この先の道って言ってたわよね」
ミーナが前を向いて確認すると二人が歩いている道は、ずっと奥の方まで真っ直ぐに続いている。
「うん、どのくらい先なんだろう。歩いてればあるかな?しばらく行ってみる?」
「そうね。とりあえずは、行ってみましょ。オペラ座だって言ってたけど、それってどんな建物なのかしら」
「僕、本でなら見たことあるよ。その本に載ってたのは、薄黄色い色の四角い建物だったけど」
「きっと看板か何かがあるはずだし、人だってたくさんいるだろうだから、見ればわかるわよね」
「だね」
今ある通りは、片方は木が並んでおり、反対側にはさまざまなお店が立ち並んでいた。どうやら有名な通りなようで、たくさんの人が行き交っている。二人は真っ直ぐに続くこの通りをしばらく歩いていると、前の方に行列が出来ているのが見えた。
「あれ、そうなんじゃない?」ミーナが指を指した先には、大きな四角い建物があり、その横には建物を囲むように人が長蛇の列を成していた。そして二人がそこに向かって歩き進めると、周りには長細い旗のようなものがいくつも置かれており、そこには招待状と同じように、オペラ座クラウド・ソレイユ・サーカス公演の文字が書かれている。
「間違いなさそうだね。うわ~凄い人!大人気だね」
「なんだか異様な光景ねえ、人がこんなにもうじゃうじゃいるなんて...」
「たしかに。ちょっと気持ち悪い」
「しかも、これ並ばなきゃいけないのよね?」
「うん、まあ、みんな並んでるなか勝手に前に押し入るのは、流石に無理だろうね」
「どうしましょ、並ぶ?」
「せっかくだし、一応並んでみよっか」
そう言って二人は列の最後尾に並んでいると、しばらくしてジョンがキョロキョロと辺りを見渡し始めた。
「どうしたの?」
「ぼくトイレに行きたいかも。ごめん、ちょっと、探してくるね」
「わかった。私はここに並んでおく」
「なるべくすぐ戻るから!」
そう言ってジョンは列からそっと抜け出すと、次第に人の山の中に消えていった。ミーナは、突然一人になったことに心細くなったが、かなりの長蛇の列だったので、並んでいればそのうちジョンは戻ってくるだろうと思った。そして、そのまま列に並びながら、周りの人たちを改めて観察していくと、辺りにはミーナのように一人でいる人もいれば、二人組の人、三、四人で集団になっている人達もいて、その様子は実にバラバラなものだった。あまりにおびただしい人の数に酔いそうになって、いったん視線を前に戻し、今度は前に立っている人をよく見てみると、その人はミーナよりもずいぶん背の高いスラリとした体型の男性であった。どうやら一人のようだ。服装はかなりシンプルなもので、白いシャツにベージュのパンツを履いている。肌の色は褐色をしており、腕にはなにか模様のようなものが入っていた。だが顔は全く見えなかった。全く見えないともなると、どうにかして覗き見てやりたくなるのだが、その男性はちらりとも横見はせず、ただひたすら真っ直ぐ前を向いているので、どうやら顔を見ることは難しそうだった。それから、再びミーナ達が歩いて来た通りに視線を向けると、通りにはロングスカートを履いた若い女性や、子供を連れた母親、一人で歩く中年の男性などが行き交っていた。ちょうど視界の先にあるお店には、出入りするお客さんが見事に入れ替わり立ち替わりで、出て行く人と、入って行く人とでごった返している。なにか人気のお店なのだろうか。それにしても、なんて街とは騒がしい場所なのかとミーナは思った。海では、人の姿を見ること自体が珍しいことであったのに、それに比べて、街というのは、果てしなく慌ただしい。人、人、人、店、店、店だ。かつてこんな光景は見たことがない。さらには全方位からはさまざまな人の声が聞こえて、その音が無限に重なり合っている。聞き取れやしないが、声の高い人の笑い声なんかは、雑音に混ざって単体で聞こえてくるようだった。ミーナはこの大きな雑音のなかにひとり落とされたように思ったが、次第に行ったり来たりする人の波と、その雑音の圧迫感にどこか息苦しささえ感じながらも、若干この光景に慣れつつあった。
こうしている間にも列は大分前に進んでいたようで、ついにオペラ座の入り口のところまで来ていた。入り口には、赤いワインの色をした絨毯が敷かれ、透明の重たそうな大きなドアが180度に開かれている。その入り口を抜けると、ようやく中に入ることができた。オペラ座の中に入ると、行き交う人の声が遮断されたのもあり、先ほどまでのざわざわした音はほとんどなくなった。代わりになにやら上品な音楽がちいさく掛けられているのが聴こえてくる。雰囲気がガラリと変わった気がした。室内だけれど天井は高く、吹き抜けになっていて開放感があり、白い柱のようなものがあちこちに立っていた。その柱が立っているのに沿って、列は連続に折りたたむようにして続いている。思ったよりも長い列だ。まさか、せっかく中に入れたというのに、ここでもこんなに並ぶとは、ミーナも流石にうんざりした気分だった。いったいどこまで続いてるのか。ジョンも遅いし。もしかしたら、ジョンは外の列を探しているんじゃないだろうか。一所懸命、外の元いた場所まで戻ってそこから探してるとしたら、ちゃんと、また合流できるのだろうか。そう考えると、だんだん不安になってきてしまう。だけど、列をなぞってここまでくれば合流出来ないなんてことはない。きっと、大丈夫。それに、この人混みではおそらくトイレだってかなり並んでいるはずだ。ということは私も途中で行きたくなったらどうしよう、とミーナは思った。もしトイレに行きたくなったら、早めに行かなければ、相当困ったことになるだろう。ああ、もうこんなことなら、最初からこんな列に並ばなきゃよかった。大体私たちは、あまりに無計画すぎた。ミナトの街船に行こうと決めた時から、そうだった。そもそもちゃんと着くかどうかすら怪しかったし、それなのに、なんとなく気分と話しの流れで決めてしまったような気がする。けれど、ジョンといるのが楽しくて、ついつい深くは考えずに来てしまった。にも関わらず、運良くちゃんと辿り着いてしまったものだから、それからはもうほとんど起きたことに身を任せっぱなしだ。ミーナはこんなことはどこか、自分らしくないように感じて、ここに来てからというもの、ずっと胸に広がるモヤモヤが気がかりで仕方なかった。今ならまだ引き返せるかもしれない。なんだか嫌な気がしてならない。この感じはなんだろう。それとも、初めての状況にただ戸惑っているだけなのだろうか。もちろん、戸惑ってはいるのだが、どこでなにを間違えてしまったのかは、わからない。そんな風にミーナが一人で考えていると、ますます悪い方へと行ってしまっている気がした。なんだか叫んでしまいたい、そんな気分だった。そうして、そろそろ限界だ、もう私からもジョンを探しに行った方がいいのかもしれない。そう思って痺れを切らした時、ミーナは斜め前にある床にちょうど人一人分ほどの四角い切り込みがあるのが目に入った。あれはなんだろう、と思っていると、ちょうど、それがドアのようにパカっと開いたのだ。そして、床から、ピエロの格好をした人がひょいと顔を覗かせた。ミーナは驚いて、そのピエロに釘付けになった。次第に周りの人も、なんだ、なんだとざわつき始める。その間にもピエロは身軽に床からひょいと上がって出て来ると、どこからかピンクと青と黄色と紫のボールを取り出し、交互に円を描くように投げ始めるとそれぞれをキャッチして見せた。ピンクを投げ、青を投げ、黄色を投げ、紫を投げ、それぞれにキャッチし、それらを器用にくるくると回していく。そして見事なことに一回も落とすことなく、完璧にすべてのボールをキャッチし終えると、ピエロは素晴らしく丁寧におじぎをして見せた。その優雅な立ち振る舞いと、突然のちょっとした芸に、列で並び疲れて退屈していた周りの客は、わぁっと喜んで拍手をした。全体の空気が、どこか軽くなったようだ。こんなちょっとした芸でも、こんなに気分が変わるなんて。やっぱりショーは観ておきたいかもしれない。単純なことにミーナもいい気分転換になって、嬉しくてぱちぱちと拍手をしていると、おじぎから顔を上げたピエロとばっちり目があってしまった。よく見ると顔は笑っているような、でも泣いているような、不気味なものだと思ったのだが、すると、そのピエロは、こちらに向かって手をおいでおいでとパタパタと振りながら、先ほど出てきた床の下にまた入って行く。どうやら下には梯子が続いているようだった。もしかしたら、ここからショーの席に案内されるのかもしれない。おそらくピエロはこのオペラ座関係の人なのだ。お茶目な案内スタッフだったのかもしれない。そんなふうに思ったミーナは、おそるおそる床の下を覗いてみた。下のほうは暗くてよく見えなかったが、梯子はずっと下の方に続いていた。ピエロはその間もずんずんと下の方へ降りて行ってしまう。ミーナは取り残されるような感覚につられる様にしてその梯子を一段、一段と降りて、何段か下に降りて行く。ふと上を向くと誰も付いてきてはいなかった。おかしい。てっきり私が降りたら、その後ろの人も来るだろうと思い込んでいたのに。なにか異様なことに気付いてミーナは慌てて戻ろうとしたが、その瞬間にドアがぱたんと閉じてしまった。