まずはざっくり流れを知ろう〜韓国の近現代②〜
■参考文献
📕本記事の参考書
①株式会社 白水社【文庫クセジュ】『朝鮮史[増補新版]』
著:李玉 訳:金容権
発行:2008年3月30日
② 山川出版社『国際政治のなかの韓国現代史』
著:木宮正史
発行:2012年4月30日
※政治勢力のパワーバランスなど、細かな部分の多くはこちらを参考にしています。
■この記事の該当時期
日本の無条件降伏日[1945.8.15]-朝鮮戦争開戦[1950.6.25]に至るまでの出来事を扱います。
前回の記事では、『朝鮮史』(以下、本書)を参考に朝鮮が大日本帝国の支配下にあった時代を扱いました。
読んでくださる方々のことを考えて半分に分けたらよかったじゃんか……と今になって思うくらい、すごーく長い期間を一本にまとめてしまったんですが。。
(本当にすみません…アップしたときは、私の読み方に合わせて「統治下のことは1本にまとめた方が状況がわかりやすいぞ!」と思ってしまっていて……。)
今回は短い期間の複雑な動きを丁寧に見ていこうと思います。(※🤔)
ようやく日本の支配が終わり、朝鮮民族待望の自治の時代となるかと思いきや、すぐに米ソの対立に飲み込まれていきます。
朝鮮国内はというと、統治下時代の活動家たちを中心に、新たな国をつくろうと動き出していました。
しかし活動家たちは、思想も、統治時代の立場も様々(※1)だったため、派閥争いに発展していきます。
本書では、日本統治の終わり〜朝鮮戦争部分はたった8ページしかありませんでした。
そのうち1ページは地図、2ページほどは当時の文学について書かれていたので、実質は朝鮮戦争中のことも含めて5ページほどにまとめられた部分でした。
訳者である金容権氏の補遺[“書き漏らした事柄(=遺)などを、あとから補うこと。その補いの部分。“だそうです。私は一つ賢くなりました!]とあわせて読むことで、大国の争いと国内の動乱とが二重に絡み合い、朝鮮戦争へと繋がっていく様子が見えてきました。
■第七章 1945年以降の朝鮮[p.115-]
日本軍の撤退後、朝鮮には米ソ占領軍がとどまることになった。
結果、朝鮮の国土は分断され、朝鮮半島に外国の後見下の、思想的に正反対の政治制度が誕生した。
政治制度の隔たりのため対立が激化し、武力衝突につながっていった。
経済的損失も甚大だった。
重工業と主要電力源が集中した北部と農業地帯の南部が切りはなされたことで、北部は食料が不足し、南部では化学肥料や電力が得られなくなってしまう悪循環が生まれた。
そうして、政治・経済的に、後見国に依存せざるを得なくなっていった。
📝外国による様々な決定
「米ソ協定」
ソ連軍が北緯38度以北、米軍が以南で、それぞれ日本軍の武装解除の責任を負うことを取り決めた。
1945年12月 「モスクワ会議」
参加者:米・英・ソ三国の外相
内容:5年後に朝鮮に統一政府を樹立することを目標とし、それまでの間は、米・英・ソ+中国の援助で国を再建することを決定した。(国際信託統治)
→しかし実際の援助は米ソに任せられ、米ソ2国は1946-47年に数回の会合を実施した。
1947年7月 朝鮮問題が国連総会に持ち込まれる
米ソの会合で有効な結論に至らなかったため、アメリカは朝鮮の統一問題を国連総会に持ち込んだ。そこで、「朝鮮全土に中央政府樹立の為の総選挙を行うべき」という案が採択される。
1948.1.12
「国連臨時委員会(オーストラリア、カナダ、中国、フランス、フィリピン、エルサルバドル、シリアの代表で構成された)」が、選挙の適法性に対する監視の役目をすることに決定。
📝総選挙に対する朝鮮の対応
1948年2月:北朝鮮臨時人民委員会は北での総選挙実施を拒否。
1948年9月:金日成を首班とする「朝鮮民主主義人民共和国(=北朝鮮)」を平壌に樹立。
1948.8.15:南朝鮮でのみ選挙を実施。
反日抵抗運動に携わっていた李承晩[イ スンマン/1875-1965]を大統領とする「大韓民国」をソウルに打ち建てた。
■訳者補遺[p.123-]
※朝鮮国内の様子が補足されています。
1, 8.15解放と分断[p.123-]
呂運亨[ヨ ウンヒョン/1885-1947]:
中道左派(※2)の独立運動指導者。
1943年11月のカイロ会談(※3)の頃から事態を予測し、1945年8月10日に 秘密組織「朝鮮建国同盟」を結成。「朝鮮建国準備委員会(健準)」へと発展させる。
玉音放送直後に、総督府政務総監 遠藤柳作の接触を受け、政権移譲の交渉を開始した。
しかし、その時すでにソ連は満州から北朝鮮に侵攻しつつあり、事実上の朝鮮半島分断が決定づけられようとしていた。
2, 朝鮮人民共和国[p.124-]
「朝鮮建国準備委員会」は、瞬く間に全国の主要都市145ヶ所に支部を設け、朝鮮国内唯一の政治勢力となり、治安隊まで備えるにいたった。
1945.9.6 「全国人民代表者大会」を開催
※米軍の仁川上陸の2日前
「朝鮮人民共和国」の樹立と、民族主権を保持した民主主義国家を標榜し、閣僚名簿を発表。
閣僚は国民の選挙によって選ばれたものではなかったが、混乱の収拾と秩序の維持、今後の進むべき道を模索する過渡政権としては十分なものだった。
閣僚名簿
※【】内は『国際政治のなかの韓国現代史』(著:木宮正史)を参照。
主席 李承晩【右派】※1919年 上海の大韓民国臨時政府初代大統領に推載
副主席 呂運亨【中道左派】
国務総理(首相) 許憲【左派】
内務部長(内相=臨時政府大統領) 金九【右派】※上海の大韓民国臨時政府の中心的存在
外交部長(外相) 金奎植【中道右派】
軍事部長 金元鳳
財務部長(財相) 曺晩植
司法部長 金炳魯
文教部長 金性洙【右派】※朝鮮総督府と敵対しない関係にあって、解放直後の朝鮮では優越した財政基盤を保持。
逓信部長 申翼煕
このほか人民委員55名、同候補委員22名、顧問12名が選出。金日成や李康国ら共産主義者も入っていた。
主な目標(※🧐)
1.日本帝国の土地制度(搾取の体系)を根本から覆し、農民に土地を分け与える。
2.日本人が残した帰属財産の恩恵を全民族に均しく分配する。
3.日本帝国の手先となった半民族分子を封じ込み、新しい社会の建設に入り込むのを防ぐ。
4.異民族支配下では拒まれてきた一般大衆の幅広い政治参加の道を開き、自主的な統一民族国家を樹立する。
→しかし、大日本帝国時代の経歴や財産擁護の立場から、金性洙や、”民族改良派”の宋鎮禹ら(※4)が意識的に呂運亨らの行動に水を差し、積極的にボイコットを行った。
北朝鮮の状況
1945.8.20 ソ連軍により日本の勢力が排除される
その後、ソ連軍が後押しした人民委員会により、秩序が維持されていた。
人民委員会を基礎に、「北朝鮮五道行政局」から「北朝鮮臨時人民委員会」へと過渡的な行政機関を作り、社会主義体制を築いていく。
4, 国論の分裂と大韓民国・朝鮮民主主義人民共和国の設立[p.127-]
1946年5月 米ソは民間人の38度線通行を全面的に禁止。
米ソは他に、
「五ヵ年の信託統治」や「モスクワ協定(朝鮮人の参加は制限された)」、さらに朝鮮問題を国連に持ち込み、朝鮮の国論を分裂させ、民族を混乱させた。
この状況下で、右派勢力と民族改良派が米軍政の庇護下で勢力を伸ばしていった(左派勢力は弾圧されていった)。(※5)
呂運亨[-1947年7月]や金九[-1949年6月]は民族の分裂を避けようとしたが、政敵によって暗殺されてしまう。
米ソの緊張の激化とともに、朝鮮の統一と独立は遠のいていく。
1948年2月に、国連による南のみの単独選挙が決議された際に、朝鮮の分断が決定的になり、米軍政や李承晩が主導する単独政権樹立に対する抵抗が起こった。
1948年2月 全国ゼネスト
「国連臨時朝鮮委員会の排除」「南単独選挙粉砕」「米ソ両軍撤収」を掲げ、200万の労働者が参加。
1948年4月 4・3済州島人民蜂起(※6)
老若男女に関わらず全島民のほとんどが参加し、統一・独立派と単独独立・分裂派で対立。激しい戦いと無差別虐殺によって、全島民の1/3にあたる8万人(本書ではこう記載されています)が犠牲になった。
しかし、朝鮮に2つの独立国家が樹立される。
1948年8月 大韓民国(韓国)
1948年9月 朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)
5, 朝鮮戦争
1950.6.25 朝鮮戦争没発。
次回投稿します。
今回もお付き合いいただきありがとうございました。
実は、最初に参考にしている『朝鮮史』では、米ソに翻弄されていくざっくりしたと流れはイメージができたけども、
訳者補遺や、参考にした『国際政治のなかの韓国現代史』を読むことで、当時の国内の様子がだんだんと見えてきました。
特に南側の地域は、本当に「混乱」した状況にあったことがよくわかります。
国内の左派と右派の権力争いが、米ソに都合よく利用されてしまった側面もあったのかなと。(米ソあってのいざこざもあるので、どちらか一方が……ということではなく、です。)
ではでは、次回に続きます。
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