まずはざっくり流れを知ろう〜韓国の近現代①〜
きみこです。アクセスしてくださってありがとうございます。
これから韓国と日本の歴史を紹介していきますので、よろしくお願いします!
■はじめに
🔗まえおきのご案内
noteで歴史を紹介していくにあたって、わたしの考えや方針をまとめました。
個人的な学習記録をこのように出すのは初めてなので、優しい目で見ていただけら…と思っています。
みなさまにとってわかりにくいところは、わたしもよくわかっていないところだと思います。やるからには伝わることが大切だと思うので、混乱する部分があればいつでも言ってくださいね。
わかりやすく紹介できるように、わたしも努力します。
📕本記事の参考書
株式会社 白水社【文庫クセジュ】『朝鮮史[増補新版]』
著:李玉 訳:金容権
発行:2008年3月30日
まずは、全体の流れについてこちらの書籍に沿って紹介していきます。
図書館に並んでいた本の中でも薄かった(!)ので、読みやすそう~と手に取った本です。
朝鮮も日本も今日までながーい歴史を持つなかで、互いに大きく関わる部分に注目していきます。
※本文中で「本書」として登場するのはこの書籍です。
🔗参考資料
岐阜県図書館 授業で使える当館所蔵地図
※スマホではダウンロードボタンをクリックしたら、PDFが表示されます。
この地図には朝鮮の北に満州国(1932年建国)があるので、今回の記事で取り上げる、第六章の後半の頃の日本(その頃は「大日本帝国」といいます)の様子を表しています。
赤色になっている部分が大日本帝国の領土なので、ぱっと見るだけでも地理関係のイメージがつきました。
学校教育での活用のためにつくられた地図資料だそうですが、岐阜県図書館のウェブページには一般の学習用にも利用可能と記載があり、今回リンクを貼らせていただきました。
(ちなみに岐阜県図書館は、地図資料の収集・活用に力を入れているそうです。)
📝時代背景
今回の記事では、李朝時代の末期にあたる1884年から、日本の統治下にあった1945年までの朝鮮の歴史を見ていきます。
日本に黒船がやってきて、新しい時代の波が押し寄せて武士の時代が終わったように、朝鮮半島にも大きな変化が訪れました。
日本史もそうですが、時代が変わると多くの混乱が起きますね。
身分や立場が揺らいで不安に襲われた人も多かったでしょうし、この19-20世紀には、欧米の文化、新しい技術や思想が入り込んできて、自ら行動を起こす人々も増えていきました。
朝鮮が日本と大きく違うのは、歴史が大きく変わりゆく日々に、他の国の統治下に置かれていた、ということだと感じました。
世界的にも激動の時代に、日本を通して新時代に触れていった朝鮮の人々の「自ら立ち上がらなければ!」というエネルギーを感じます。
前半はほぼ年表のようになってしまい、読みにくいかも…なのですが。
たくさんの出来事に翻弄された「激動」の様子をイメージしていただければ…と思っています。
きみこ
■第五章 李朝時代(1392〜1910)
□Ⅹ 李朝の滅亡[p.104-]
絶え間ない政治紛争、経済不振、諸外国の脅威が李朝の滅亡に繋がった。
📝年表〜諸外国の脅威〜
1884年 仁川に諸外国が租界※1 をつくった。
イギリスはポート・ハミルトン(巨文島)に海軍基地を置いた。[1885-87年]
1884年11月 独立党[トンニプタン※開化党とも]の改革運動
…1860年代以降の日本の改革モデルに倣った改革派の指導者 金玉均[1851-1893]、朴泳孝[1861-1938]らが、中国や日本の援助を期待する保守派に対立して起こしたクーデター。中国の将軍 袁世凱の介入で3日で鎮圧された。
📝年表〜日本の介入〜
1894-95 日清戦争
1894年はじめ 新興宗教「東学」の指導者 金琫準[1853-95]が全羅道で反乱。朝鮮政府は鎮圧を清(=当時の中国)軍に依頼。日本も居留民の生命・財産保護の名目で約7000の兵を送り込み、日清が衝突した。
1895年4月 下関条約:朝鮮は独立主権国家と宣言。中国は朝鮮に対する全ての宗主権(=他国の内政・外交を管理する特殊な権力)を失い、日本が朝鮮半島への政治的影響力をますます強めていった。
1895.10.8 閔妃※2が”日本軍に虐殺される”。[p.105]
1896年2月-1897年2月 ソウルのロシア公使館が生き残った王族と高宗王[1863-1907]を匿い、日本の圧力から保護した。
1897年8月 高宗王が国名を正式に「大韓帝国」と改める。
1902年 日英同盟
日本は、ロシアに拡張政策を反対されない限り、朝鮮半島で自由に振る舞えるようになった。
1904-5年 日露戦争→ポーツマス条約
ロシアは敗戦のため朝鮮政府に支援できなくなる。
1905年 伊藤博文が朝鮮政府に保護条約(①朝鮮の外交を日本の統治下に②朝鮮総督府を設置する)を強要。
1907年6月 第二回万国平和会議:朝鮮は日本への抗議を表明。
1907-10年 朝鮮全土で反日人民蜂起が起きるも日本が弾圧。
1908年 東洋開拓会社 創設
1909年 伊藤博文がハルビンで安重根[1879-1910]に暗殺される。
1910年 朝鮮全土が日本に併合。8月29日に朝鮮総督府が設置された。
朝鮮全国で暴動が起こったが、外来の資本主義と日本の拡張政策の圧力により、鉄道、電信、電話、鉱山網が張り巡らされていった。
■第六章 日本の支配(1910〜1945)
📝統治下の朝鮮
朝鮮総督府とは、大日本帝国領となった朝鮮を統治するために設置された官庁のこと。
その長官である朝鮮総督には主に陸軍大将が着任(初代総督:陸軍大将 寺内正毅)し、陸軍が武力で統治する「武断政治」の時代となる。
・結社、集会の禁止
・朝鮮語新聞の発行禁止
・教員や文官らに、制服やサーベル(洋刀)の着用を義務付け
・日本の法令に従わない「不服従罪」での逮捕者は1918年には14万人にまで増加。中にはいわれのない罪で逮捕された者もいた。
📝土地所有と所得への統制
1912年 全ての地主に敷地と土地面積を申告する法令を下す。
対象者のうち77.5%の地主がこの命令に従わなかった。そのため朝鮮の耕地面積の約40%に値する未調査の土地が「無主地」として総督府の管轄下に置かれた。
「無主地」のうち、条件のいい土地と日本人債権者への借金があった耕作者から奪った土地は東洋開拓会社の所有となった。
1916年頃には、法令に従わなかった地主たちは単なる小作人となっており、農民の困窮が進んだ。
📝1919.3.1 朝鮮独立運動
"ウィルソン大統領が1918年1月に行った民族自決権に関する声明に力を得た知識人らは、1919年3月1日「独立宣言」を発表した。" [p.108]
🔗参考:ウッドロー・ウィルソン「14 カ条の平和原則」[1918年]
🤔ウィルソン大統領はこの中で「各民族が自らの事は自ら決定できる」ということを説いてます。民族の平等、人種の平等が前提とされるはずでしたが、アジア・アフリカ民族は適用外となっていました。
そのことへの不満が朝鮮や中国の暴動に繋がった、という見方もあるようですが、本書では民族自決権に関する声明に"力を得て"独立宣言へ繋がった、と書かれていました。
自らの民族の事は自らで決定できるという権利が主張されたこと自体に勇気を得た当時の朝鮮の人々の気持ちが感じられる紹介でした。
朝鮮では民衆もこれに応え、全国でデモが巻き起こった。
1919年3-4月で、デモ参加者はおよそ50万人に達し、その後も増加していく。
3-5月には、48,694名が投獄され、7,509名が死亡、15,961名が負傷した。
独立運動は海外居住の朝鮮人にも広がり、世界的に認知されるようになっていった。
満州では日本領事館が襲撃され、上海のフランス人租界には「大韓民国臨時政府」が樹立した。
📝独立運動後の日本の対応「文化政治」
1919年 海軍大将の斎藤実が朝鮮総督に着任。植民地政策は「武断政治」から懐柔策を取り入れた「文化政治」へ。
・文官らの制服、サーベルの着用は不要になった。
・1920年-、『東亜日報』『朝鮮日報』などの朝鮮語新聞・雑誌の発刊も可能になった。
・一定数の朝鮮人は行政ポストに就けるようになった。
・一部の学生や外交官は外国に赴くことができ、欧米の文化や思想が朝鮮に入りやすくなった。
・文化面では、欧米文学の日本語訳から学び、詩と散文で近代的なスタイル、ジャンルを生み出そうと努めた。
📝日本の経済政策
1.米の生産
日本国内で米不足が深刻化し、米騒動へ発展するなど社会問題になっていた。そこで朝鮮での米の増産に力を入れたが、目標には到底及ばなかった。
その上、朝鮮産の米までも日本に運び去ってしまったため、朝鮮で消費できる米はますます不足。満州から粟を輸入しても、朝鮮の食糧危機は回復できなかった。
2.工業生産
朝鮮での米作には、より多くの化学肥料が必要だったため、1927年 興南に当時アジア最大級の工場を建設した。
総督府は、朝鮮での工業生産を積極的に推し進め、1937-39年の朝鮮の工業生産率は39%を占めるまでに発展した。
※一方農業は52%から42%に落ち込んだそうです。
朝鮮人は工業に従事したことで、近代的な技術を理論的・実践的に身につけることができた。しかし、日本人の半分以下の日給で雇える安価な労働力とみなされており、日本の軍事力に貢献することになっていった。
📝「内鮮一体」~終戦まで
内鮮一体:
1936-45年の朝鮮統治のスローガン。朝鮮を差別待遇せずに内地(=日本本土)と一体化しようというもの。
1.朝鮮国内の様子
・総督府では、太平洋戦争[1941-45]中も、朝鮮人への軍事的支配と治安統制を一層強めていった。そのため朝鮮国内の抗日運動は低迷化した。
・戦時中は言論、集会の自由を厳しく統制し、野蛮な警察が些細なことでも騒ぎ立てた。
・驚くべきことに、朝鮮人は「創氏改名※3」のような策動には従った。
2.国外の様子
このころ、国外での抗日運動が積極化していった。
1932年【東京】 李奉昌[1900-1932]が天皇に手榴弾を投じる。
1932年【上海】 尹奉吉[1908-1932]の投弾により、白川義則陸軍大将が死亡。野村吉三郎海軍大将、重光葵大使らが重傷を負った。
1940年【中国】 大韓民国臨時政府軍が日本占領下の中国領土解放の闘争に参加。
この時期、朝鮮の北方国境地帯や満州 吉林省では抗日遊撃隊が作戦を展開した。
3.終戦へ
1943年11月 カイロ会談
米英中の代表が朝鮮の独立国家建設を決定
1945年7月 ソ連も参加したポツダム会談で国家建設が前進
1945.8.15 日本降伏に伴い、朝鮮は主権国家の仲間入りを果たした。
ふうっ。
みなさま、お疲れ様でした!
ここまで目を通してくださってありがとうございます。
李朝の終焉から、1945年の終戦までの朝鮮の歴史を見てきました。
第五章は政治の流れが中心でしたが、第六章は当時の朝鮮の人々の生活も見えてくるような内容でした。
市井の人々の様子に注目すると、実は少し前の日本でも同じようなことが起こっていて…という気づきがありました。
そのことは、また別の機会に触れてみたいと思っています。
本書の続きでは、朝鮮戦争に触れていきます。
きみこ
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