チョコレートと壺

教師として働いていた2年前までは、家族のためにチョコレートを買っていた。

下の息子には、恐竜モチーフのチョコレート。
娘には、ちょっとおしゃれなかわいいチョコレート。
夫には、お酒が入っていたり、クセがあったりするチョコレート。
同居する夫の母には、箱のデザイン重視のチョコレート。

既に家を出ていた息子にあげるなら…と、売り場であれこれ考えるのも楽しかった。

ところで、人生には「〇〇の壺」というものが存在している。
…と、わたしは勝手に思っている。

例えば、「努力の壺」。
これは、担任している子どもたちによく話をしていた。

『努力の壺』というものがあってね。
上手になりたいな、できるようになりたいな、と思うことがあるとする。
スイミングでもいいし、なわとびでもいい。
努力を壺にコツコツ溜めていくと、壺から努力があふれたときには
それができるようになっている。
そういう壺があるんだよ。
でもね、『努力の壺』の大きさは、誰にもわからない。
だから、どれだけ努力を入れたらいいのかもわからない。
あきらめないで努力を入れ続けられたら、
できるようになる、という壺なんだよ。

という話。
これは何も、「できるようになりたいこと」に限ったことではない。
わたしには「チョコレートの壺」というものがあったらしい。
大好きで、特に30代前半まではチョコレートをしょっちゅう食べていた。
職場の引き出しにも入れていたし、
毎年出る新作チョコレートを買って食べるのが至福のひとときだった。
思えばあの頃に、チョコレートの壺がどんどんチョコレートで満たされていったのだろう。

あるとき、チョコレートを食べたいと思わなくなった。
食べると歯にしみる、という理由も重なり、ぱったりと食べなくなった。
もちろん、一生口にはしません!というレベルではない。
おいしいよと勧められたり、いただいたりしたときには
ありがたく頂戴する。
そういう機会がない限り、わたしはチョコレートを食べなくなった。
ましてや、自分のために買うなんてこともしない。

自分のためには買わないチョコレート。
しかし、家族のために買うチョコレートはわたしにとって特別なもの。
どんな顔をしてくれるかな。
喜んでくれるかな。
家族に渡す顔を想像するだけで、とにかくしあわせなのだった。

去年。
わたしは、家族のためにチョコレートを買わなかった。
教師を辞めて10ヶ月。
初めての自営業に疲れ果てていて、バレンタインデーを意識することすら
億劫になっていたのだった。

今年。
わたしは、やはり家族のためにチョコレートを買わなかった。
自由に使えるお金が少なくなったというのも理由の一つではある。
けれど、自分の内なる声に向き合い続けてきて、気づいたことがあったのだ。

「家族と一緒に過ごすことのできない罪悪感を、
 わたしはバレンタインデーにチョコレートを渡すことで
 埋め合わせていたのだ」

家族の喜ぶ顔を見たい。
そんな理由でチョコレートを買っていたのだと長年自分でも認識していた。
実際は、そうではなかった。
朝、子どもたちが起きてくる前に家を出て
夜、子どもたちが寝た後に帰ってくる生活。
一緒にいられない申し訳なさを、チョコレートを渡すことで紛らわせていただけだったのだ。

これは自分の中でもかなり大きな気づきだった。
家族と一緒にいられないけれど、いいお母さんでありたい。
そんな思いが深いところにあったのか…と。

今年、わたしはチョコレートを買わなかった。
来年、わたしはチョコレートを買うのだろうか。

娘と息子と一緒に過ごした時間が長くなった。
娘と息子と一緒に過ごせる時間は限られてきた。

もしかしたらわたしは、
チョコレートを買うのかもしれない。

同じ家に住むことができる限られた時間、
おいしそうにチョコレートを味わう子どもと一緒にいたひとときを
わたしの記憶に留めておきたいという
なんともわがままな願いのために。


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