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啓示 「自分が幸せにしたいと思う人と結婚する」

こんにちは,ちかと申します.


TwitterがTwitterでなくなってからアプリを消していたのだけど,修士論文を書いている鬱憤をどうしても呟きたくてアプリを再インストールした.(意志の弱さと自分の甘やかしをこういうところで感じる)
せめてもの抵抗で,制限時間は1日5分.ほぼ呟きたいことを呟くことしかできない仕様だ.

それでもなぜか目に入ってくるいろんな人のツイート(ツイートの代わりになんというのかしらない,ポスト?)の中に,目覚ましいものを見つけた.

そのツイートから私が受け取った情報は「いい女は自分が幸せにしたいと思う人と結婚する」というものだ.神様の啓示かと思うくらい,びっくりした.


いい女になりたいと思うことはあまりないし(いい人になりたいとは常々思っている),いい女になりたくてこの言葉が刺さったわけじゃない.純粋に「自分が幸せにしたいと思う人と結婚する」という考えが,とってもセンセーショナルだった.

ことさら「私が恋人と結婚したら,恋人は幸せを感じてくれるのだろうか,恋人の隣は私で大丈夫だろうか」などとウジウジ考えていたので,なんだか急に道が開けたような気分になった.

ちなみにウジウジの片鱗はnoteにも書いて残してさえいる.

(これとかまさにそう)

(これにもカケラが)


でも,このウジウジが一掃した.
この考え方の何がいいって,「自分が幸せにしたいと思えたら,結婚」って,相手の意思や気持ちという私の手にできないところを除外した考え方というところだ.

『嫌われる勇気』にも書いてあった,変えられるのは自分の手の届く範囲の,自分と,自分を取り巻く環境だけだって.相手の考えや,変えられない環境などについては,どうにかしようとするべきじゃないって.特にプライベートなことにおいては私の手に届かないことを私の意思や目標,意思決定に内在しないべきだ.(仕事はチームだし契約なので別だと思うけど)

もちろん,これは相手のことを鑑みていないわけじゃない.私は相手を幸せにしたいし,相手がそう思って欲しいことを強く願っているし,自分だってそうおもってもらえるような良き隣人になり続けたい所存だ.
でも,こちらの意思に相手の考えを含めない,それはきっと何かを決断するひとりの人としてとても重要なこと,少なくとも「私を世界一好きでいてくれる人と結婚したい」という考えより健康的で,結婚する前もした後も自分の人生の中の結婚として位置付けることができるだろう.


「私が幸せになれるひとと結婚」もまた,相手次第でどうにもならなくなってしまうし,やっぱり「私が幸せにしたい」という意思だけがいい.「私が幸せにできる」も自信がないし相手の意思が入る.「私が幸せにしたい」くらいがちょうどいい.相手の意思や決意があると毎秒不安になってしまうものね. 

それに相手から見ても,私の意思や決意の「幸せにしたい」だけなら,「幸せにするよ」よりも期待値が低く,愛だけ感じることができる最良な決断な気がする.
感情は大切だけど,相手に押し付けたり押し付けられたり期待させたりしたりするものじゃないもんね.結婚といえど,私の人生だし,相手の人生だもん.


多分可愛げも愛嬌もない,もっと得をするような考え方ややり方だって絶対にあることはわかる.でもこうやってできるだけ主体的に,自分を自分ごとに,と考えるか行動するかを生きがいに生き抜いてきた私にとっては,すごく腑に落ちた.これを私は私なりの「賢さ」と呼びたいし,これが生きるためにもらった力なら,遺憾無く使いこなしたい.こういう,「私も相手も迷惑をかけずに幸せにする」方法を知るために私は賢くありたいと思っているんだ.

だって,「私が幸せにしたいと思ったから結婚した」って言える人,シンプルで最強にかっこよくない? 

し,もしも恋人に「僕がきみを幸せにしたいと思ったから結婚しよう」って言われたら,そんなんどちゃくそな愛だと思うし,本当に嬉しいだろうなあ,とも思う.私を愛していてくれるのはわかるけど私依存じゃない,私が全く気負うことなく「ありがとう」って言えるプロポーズ!誰でもなく君が,誰でもなく私を幸せにしたいと思ってくれてるなら,そんな世界線に生まれたことを感謝するのみである.
(私が幸せになる出来事はこの世で山のようにあり,天気がいいだけでも幸せになれちゃうから,ハードルがとても低いとも言える.し,もしかしたら「僕こそが」と思うと逆にほんの少しハードルは高いかもしれないけど,ね笑)


もちろんね,やっぱり「世界で一番好きでいてくれる人と結婚したい」というのは気持ち的には全く変わらないでいるし,一生を誓える存在に憧れてもいるし,so sweetなパートナーだって諦めてないし,上記の通りプロポーズだってされたい.
でも「私が幸せにしたい」と思っているひとに「結婚しよう」と言ってもらったら,「いいよ,あたしもあなたを幸せにしたいから,結婚したい」って,いいたい.グチャグチャ考えずに,結婚の軸はこれがいい.


じゃあ,どんな人を幸せにしたいんだろうか?

今の恋人は,確かに幸せにしたいと思うけど,どちらかというと私は今大変幸せであるという前提があり,その上で「幸せにしてあげたい」みたいな気持ちかもしれない,それってもしも私が幸せじゃなかったら(そんなことはもしかしたら経験則で少ないなとは思うけど)多分長くは続かない.
相手への尊敬もあるし気持ちもあるけど,相手が私を思う努力がないと続かない感覚な気がする.これは別のnoteにしようと思っていて,考えていて正解も分からず自分があまりにもわがままで嫌になってしまって停まってるんだけど,恋人にたまに思う「隣に人がいる感覚の欠如,都合の良さではなく相手を思って決断して欲しいとき」が,自覚ありでもずっと続くのなら,多分一緒にいるのは向いてない
(告白の時は,一緒にいて幸せだからって言われた,それをひきづってるのかもしれない.少し前にちょっとすれ違った時に「もう嫌な思いはさせたくない」と言われた,その感覚ならきっとそばにいられるのかな.)

我ながら便利屋さんになれる資質がある(相手の気持ちを考える努力をするし,相手が良くない状態だったらなんとなくわかってどうにかしようとするし,それを私も望んでしてしまう,それが自分の犠牲の上に立っていても)ので,そうでなくて私を思ってくれる人といないと私は幸せになれないし,そうすると私は他の人を幸せにしようと思う余裕がなくなっちゃう気がする.
だから,例えば相手が自分の幸せだけを考えて私をそばにおこうと思うなら,きっと私はいつか擦り切れてしまうし,「それは回り回ってきみのためでもないです」と突っぱねるしかないよね
(擦り切れてもいいと思うほど愛せる人だったらいいし,本当はそれくらいの余裕を人間関係で担保できるような精神状態でありたいけれど,ね)


あれ,結局厄介かも…
いや,厄介でも,隣にいる人の幸せを願える人と結婚して,そんな人を幸せにしたいし,何よりそんな人と子育てがしたい.それは譲らないでいたい.
ああ,やっぱり色々考えちゃうんだなあ笑 そういう性質すぎる笑


それにこれを書いていて思い出した

また結局「自分のため」になっちゃってるんだ,ずっとこの思考がやめられなくて,「相手のため」の話とまた逆行しているのかもしれない,また考えることが増えちゃった,


どうしたら,自分も幸せに,相手も幸せに,どこにも歪みのない人への尊重と愛を実現できるんだろう….(多分今日はもう無理,ここまでにしておこう笑)



まあ,でもとりあえず,結婚に関しては新しい視座を得てとてもすっきりと「これからどうしよう」を解決した.相手と結婚できるかどうか不安になるときは,「今の所隣にいる恋人のことを私が幸せにしたいか」を考えて,そうであるならばそれがその時の最上として簡単に不安を払拭できるようになる気がする.

いま,私は恋人のことを幸せにしたいかというと,もちろん幸せにしたいけど,まだ満点で「絶対私こそが幸せにしたい!」と言えない,まだ「他の女の子でも幸せにできるよ,それでもちょっと嫌だけど,君のためならいいよ」って思っちゃうから,そういうことで落ち着いておこうっと.


なんて厄介,でもこうやって考えるのが好きだから,人に迷惑をかけないようにしていれば,厄介でもいいよね!

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