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『宮本貞雄さん』
ボクがタツノコプロダクション時代にお世話になったアニメーターの宮本貞雄さんのお話をしたいと思います。
宮本さんがアメリカに渡ったのは1991年、五十四歳の時でした。虫プロ、サンリオ、タツノコ、東映と素晴らしい実績と作品を残した宮本さんの夢はディズニーで働くことだったと以前デジタルハリウッド大学での講演でお話をしてくださいました。アメリカに渡って二年間の紆余曲折を経た後、ようやく夢が叶ってディズニー・コンシュマー・プロダクトに入社した宮本さんは『ライオンキング』『ポカホンタス』『ムーラン』『ターザン』などの商品デザインのガイドイラストを書きました。宮本さんの書かれた絵は世界中で沢山のディズニーキャラクター商品になったそうです。
そんな宮本さんからフェイスブックを通して丁寧なお手紙をいただいた事があります。そこには「タツノコ時代に厳しく接したことを許して欲しい」とありました。二十代前半の頃の事です。タツノコアニメ技術研究所に所属していた研修生仲間が集まって野球部を作りました。頻繁に練習をして、少ない収入の中倹約してユニホームまで作りました。当時タツノコプロダクションにも野球部があったので、ボクは両方のチームに所属していました。事件はタツノコ野球部の忘年会で起きました。「研究所のチームはタツノコの二軍だ」野球部監督の宮本さんの言葉が許せなくてボクはくってかかり、あげくつかみ合いになりました。
つかみ合いと言っても身長180センチを越えるレスラー並の筋力の持ち主であった宮本さんに体重55キロの当時のボクが叶うわけがありません。首根っこを捕まれて天井近くまで持ち上げられてしまいました。周囲が止めてくれて幸い大事には至りませんでしたが若気の至りと言って済まされない失礼をしたと今では思っています。
それからしばらくして養成所で初めての原画の試験がありました。試験以前に原画に上がっていた者と、原画を希望する動画マンが試験に臨みます。実際に放送された作品のコンテを元に原画を書いて期日までに提出するのですが、それまで原画を書いたことのなかったボクは締め切り当日になっても原画を書き上げることが出来ませんでした。日が落ちても課題に向かっているところへ宮本さんが様子を見に来て言いました。
「私の時給を君は知っているか? こうして君の上がりを待っている時間は会社にとってどれだけの損失になるか考えなさい」 そんな感じだったと思います。
すごく真っ当な事を言っていると今なら理解できます。でも当時のボクは若くて技術的にも精神的にも未熟で、原画試験にも落ちた二重のショックでしばらく立ち直れませんでした。
宮本さんの手紙にはその二つの出来事について丁寧な謝罪の言葉が綴られていました。
大先輩に対して失礼な行いをしたボクに対しての宮本さんの温かい言葉に驚かされます。
日本での実績を捨てて、今のボクと同じくらいの年齢でアメリカに渡ってディズニーに挑戦する勇気。失礼な後輩に温情溢れる手紙を送る勇気。
そのどちらも今のボクには出来ないことです。
宮本さんには直接お目に掛かって手紙のお礼を言いたいと思っています。もちろん失礼な過去の行動のお詫びも忘れずに。