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【美術館感想文】大山崎山荘美術館

2024年、一番最初に訪れたのは、京都にある「大山崎山荘美術館」だった。いろいろな事情で、珍しく団体バスで近くまで行ったので道中はよく覚えていないが、確か、最寄りの駅から少し歩いたら着いた。最寄りの駅からはシャトルバスも出ていたはず。ただ、歩くの嫌いじゃないので、山道を上った。気持ちよかった。こういうときにしっかりと、バスの情報を調べたりするのが後世のためにはよいのだろうけれど、こんな時間なので許してほしい。坂を登った先にあるバス停から美術館まではさらに歩くことになったので、歩くのが得意じゃない人はバスを待った方がいいかも。

トンネルを抜けてしばらく進むと、コインロッカーがあった。すごくいい。美術館は身軽でなくっちゃ。もうすでに鑑賞体験が始まっているのだとわくわくする。



たしか、このときは藤田嗣治の展示をしていた。

特別彼のことが好きだったわけではないが、いろんな美術館でよく見る画家で、でも何にも知らない画家でもあって、ちょっとだけ彼との距離が縮まった気がした。学生の頃はわからなかった、日本に生まれた人が「日本人」として死ぬとは限らない、というか「日本人」ってなんだ?みたいなもやもやが、ちゃんともやもやとして認識できるようになってきた気がする。漠然とわからないというまま知ろうとしなかった、知ろうとすることがタブーだと思い込んでいた、国籍とかジェンダーとかそういうことについて、ラベリングしなければ考えてみてもいいんじゃないかと思えるようになってきた。(考えなければならない、という社会的なアレではなくて個人の心情として)

美術館には、展覧会を見に行くために行くときと、その場に行きたくて行くときの2パターンあって、今回は後者だった。
圧倒的な建築の美しさ、奥ゆかしさ、守り続けるということ、山荘を生かし続けるということについて考えた。本館の圧倒的な強さと、地中館の空間の中に差し込む光と揺らめきは、時の流れを緩やかにした。地中館にあるモネの大装飾画が見たくて、わくわくしながら安藤忠雄が作った地下へ続く階段を降りて、やっぱりそこで待っていてくれた睡蓮はどこか寂しげで、でも落ち着いていて、素敵だったけれど、1年経っても色濃く残っている情景は、階段から見上げた天井に反射していた、周りの池の水面のきらめきだったりする。
人間は自然には敵わないけれども、その、自然の美しさを気付かせてくれるのは人間だったりする。期間は頻繁ではないかもしれないけれど、自らを見つめ直すために、周りを見るということを忘れかけたときには、呼吸をするために、足を運びたいなと思っている。お気に入りの空間がまたひとつ増えた。


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