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荒野に咲く花々7 オスベリア

だれも私たちのすべきことを言ってはくれない


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       オスベリア・キロス・ゴンサレス
   ( モレロス州テポストラン 先住民ナワの代議員)

 80歳のオスベリア・キロス・ゴンサレスはCIGでは最年長の女性である。機敏な人間でさえ、彼女について行くのは一苦労である。身軽に丘を登り下りする姿に、誰もがびっくりする。彼女は、自分たちの領域から丘を削り取ろうとする重機の前に身体を投げ出し、諸要求を広めるため料金所を無料通過できるようにもしている。若い時には陸上競技大会に出ていたオスベリア先生を皆は「ガゼル」と呼んでいた。それは納得できる。
 生粋のテポストラン女性の彼女を知らない人は、テポストラン行政区の役場町にはいない。数百人もの教え子たちは、今では人生を積み重ね、親、さらには祖父母になっている人もいる。
 11月のある日曜日、オスベリアは町役場の前の反対運動の座り込みの現場に向かった。それは町を分断し、人々の意向に反して行われている高速道路の拡張工事【現2車線を4車線に拡張】に反対するものである。彼女は祭壇を整え、掃除をした。

座り込み

      高速道路拡張計画反対で役場前座り込み

 彼女の割当分のポスターを受け取り袋に入れると、仲間と合流するために料金所に向かった。仲間は料金所をシンボル的に占拠し、無料通過できるようにしていた。通信運輸省(SCT)職員には料金所から退去するか、道を開けるように求め、運転手には一定の協力金を瓶に入れてもらい、料金を払わずに通過できるようにした。オスベリアは厚紙のプラカードを広げ、脇に置いた。警察が彼女を監視していたが、オスベリアは見向きしなかった。

料金所

     料金所を占拠し、無料通過できるようにした

カンパ

        料金所で反対運動へのカンパを訴える

 「弾圧など怖くない」と、彼女は確信をもって言う。「いつか捕まるとしても、連行される所に行くわ。刑務所なんか、大したことじゃない。監獄でも平気よ。本を読み続けられるなら、私たちの祖先がしてきたことに関する本を読みたい。私たちに権利としてあるもの、つまり私たちの領域に関する本を読みたい」。戦士の血を受け継いだ彼女は、現モレロス州知事グラコ・ラミレス【2012~18年、PRD派州知事】にも、領域を奪い取ろうとする多国籍企業の作業員にも、同じように対決する。寛いでいる暇などなく、「時間も足りない」と、彼女は言っている。

悲劇の町
 近年、テポストラン行政区の役場町には、観光産業のオファーが流れ込んでいる。ホテル、レストラン、アドベンチャー・スポーツなど、さまざまな金の使い道が提供されている。実際、週末になると中心街を横切ることもできず、多くの車両で大通りも狭い路地も渋滞している。しかし、利益を受けるのは、テポストラン住民ではない。1999年、テポストランは国内に111か所あるプエブロ・マヒコ(魅惑的な町)の一つに宣言された【実際は2001年指定、2009年露店・酒類販売などで指定解除、2010年指定復活。2015年は111か所、2021年は132カ所】。

観光

      近年、観光産業のオファーが流れ込んでいる

 その指定によって「私たちは貧しくなった」と、彼女は指摘する。通りに面した家の正面は「肝炎患者」のような黄色がかった色で画一的に塗られ、テポストランの資源が過剰に開発されたせいでもある。「町には下水施設、舗装、街灯も整備されていない。それにもかかわらず、観光客を引き寄せるため、外見をきれいに取り繕う事業しか行われていない。儲かっているのはホテル経営者だけである」。
 「ちっとも魅惑的な町ではない」と彼女は強調し、「悲劇の町」になっていると指摘する。「私たちテポストランの住民は町を歩けなくなっている。何もかも高いので、必要なものを買うため、ヤウテペックやクアウトラに出かける。そこの方が安いから」。しかも、「プエブロ・マヒコ割当ての予算は協会関係者が独占している」。テポストランの責任者は、「教職員組合運動を裏切った人物」と、彼女は告発する。だが、「教職員組合運動にも誠実な人がいる」ことは、彼女もわきまえている。

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       経済的な収益は住民のものとなっていない

 考えられているのと異なり、かつてのビジャ・デ・テポストランの昔からの住民は、観光業で生計を立てていない。むしろ、観光業から離れている。テポストランの渓谷や山並みの雄大な姿は、ホテルやレストランの経営者を引き付けてきた。しかし、「その大多数は外部の人間である」。地元の住民は、荷物運び、給仕係、駐車担当係など、サービス提供者である。また、地元住民は、チャルーパ、ケサディージャ、エンチラーダスの屋台で、畑でとれた農産物を売る小商人である。町の中心にあるトウモロコシや野菜を売る伝統的な市の消滅を望む輩によって、地元テポストランの人間は追い出されることになる」。

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       住民の大半は観光業で生計を立てていない

 今では、家の中庭は、昔のように荷物運搬用の牛馬ではなく、車の長蛇の列のためのスペースとなっている。町の中心部だけでも百カ所以上が駐車場になっている。丘陵はもはや主要な観光の場ではなく、投機目的の売買の空間となっている。20年前は1平米あたり200ペソだったが、今ではテポストラン中心部では、3~4千ペソと、10倍も上昇している。
 レボルシオン通りでは、週末や祝日になると、テポストランの住民や外部の人がやっている民芸品やヒッピー風の服の露店、ワラチェリア【ワラチェの形をした大型のソペス】や食事の屋台が立ち並ぶ。観光客は通りをぶらぶら散策し、「欲しい物を買うので、ある程度は地域経済に貢献している」。
 しかし、「別種の観光客」は、ヘリコプタやセスナでやってきて、スパに行き、グルメを楽しむ。この種の観光は、テポストランの人々から略奪すると、オスベリア先生は説明する。これらの観光では、「ミチェラーダ」【ビールとライムジュースにスパイス、トウガラシ等を加えて作るカクテル】を飲み、アイスクリームを食べ、散策し、丘に登り、街での疲れを癒やすことなどはしない。テポストランの住民は、観光自体に反対しないと明言する。しかし、テポストランを世界最大の飲み屋に変え、アドベンチャー・ツーリズムで丘を破壊する観光にはきっぱり反対する。

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        テポストランのミチェラーダ

 オスベリア先生は語る。「かつて岩壁画があった丘の一部は最近壊されてしまった」。彼女は繰り返す。「ひと儲けをたくらむ連中がテポストランに来て、丘を破壊している。連中はテポストランの住民ではない。一時的に儲け仕事に参加するテポストランの住民もいるが、結局は脇に追いやられる羽目になる」

岩絵

           ヨウアリンチャン岩壁絵

ヨワリン

         ヨウアリンチャンの丘

 「抵抗する民族、戦士の民族」とされるトラウィカ【現モレロス州一帯の先住民族、14世紀半ばからアステカ支配下で多くはナワトル語話者】の子孫であるオスベリアは、自分たちに属するものを守るため、テポストランの人々と組織化を進めている。彼女は語る。「テポステコの神は、私たちに大切な言葉を残した。自分たちで領域を守りなさい。星ではなく月の光で私たちを騙しにくる連中を信用してはならない」。
 今、資源はまだ十分に残っている。「何もかも持っていかれたわけではない」。しかし、多国籍企業は、「領域の奥深くまで入り込み、鉱山開発、ガスパイプライン、発電所、さらには高速道路のセメントの塊などで、私たちの母なる大地を破壊し、事業を完成させようとする」

作物の代わりにセメント
 2017年5月20日、ラ・ペラ=テポストラン高速道路に3千本の伐採された木が放置された状態で、テポストランは朝を迎えた。「無許可の立木伐採という環境犯罪」とオスベリアは断言する。ラ・ペラ=クアウトラ高速道路の拡張工事に関連した立木伐採は「完全な違法行為だ。私たちの村を分断し、聖なる場所を横断し、環境をダメにする」と、彼女は語る。

樹木伐採

        拡幅工事のため伐採された樹木

 オスベリア先生の説明では、道路拡張工事に際して、17kmから20,7kmの土地が、エヒードのメンバーによって、「1m²あたり43ペソという廉価で売られた」。それゆえ事前占有の協定を結んでいる運輸省(SCT)はその区間の伐採はできる。しかし、道路拡張計画では0kmから20,7kmの全区間の立木すべてを破壊している」と、彼女は話す。
 インタビューは、「夜の見回り人」を意味するヨワリチャンの丘の麓にあるヨワリチャン・ピラミッドから少し離れた場所で行われた。ピラミッドにあったいくつもの先祖伝来の石が切り取られ、政府高官の屋敷の壁を飾っている。「それはまったく不当な行為だ」と、オスベリアは締めくくった。彼女は丘に登ると、領域の防衛のための伝統行事に参加した。

ピラミッド

         ヨウアリンチャンのピラミッド跡

 テポストランの住民によって、工事用重機は何度も操業停止に追い込まれた。住民たちは、裁判闘争に当たって何度も座り込みをしてきた。高速道路の利権を得ていたトラデコ社【1992年創業、PAN政権期急成長の建設会社】に対する最初の事業差し止め訴訟で、3年間の工事中止という措置を勝ち取った。しかし、アングラル社をはじめとする会社の工事用重機が再び来て、3年間の「失われた時間」を取り戻そうとしている。

重機

        道路拡張の重機を住民は何度も阻止

 「被害は甚大」と、オスベリアは説明する。「環境を根こそぎ破壊してしまう」。「高速道路と料金所の儲けはすべて彼らの懐に入る」。しかも、それとともに、「巨大スーパーマーケットや住宅開発が一体でやってくる。つまり、永久保護地区を破壊する許可が与えられている」。
 一方、テポストランの住民は、「トレーラーの騒音や環境汚染にさらされることになる」。つまり、高速道路は金持ちのためのものであり、商品を運搬するためのものである。プエブラ・パナマ計画【2001年発足のメキシコ南部 9 州および中米 7 カ国の広域開発計画】から派生したモレロス州統合計画【カルデロン大統領が始めたエネルギー開発計画】のプロジェクトの一つである。
 

拡張計画

         高速道路拡張計画、第1区は5車線

 
 「政府は腹立たしい存在である」と、オスベリアは語る。巨大スーパーマーケットには水が十分に供給されているが、「村の住民は、週に一回の断水を甘受しなければならない」。さらに、地域にある五百種類以上の薬草などが含まれる植物相や動物相が破壊される。例えば料金所から8キロメートル地点に鹿がいたが、拡張工事でどこかに行ってしまった。「そこの山に少しばかり土地があるので、鹿が姿を消したことを知っている」と、オスベリアは話す。
 道路拡張工事でひどい影響を受けるのは、永久保護地区であるテポステコ国立公園とメキシコ市の肺といわれるチチナウティン生物回廊である。この生物回廊は、アトラトラウカン、トラヤカパン、トトラパン、ヤウテペク、テポストラン、ウィツィラク、ヒウテペクの8行政区にまたがる。

回廊

     チチナウティン生物回廊(TNP: テポステコ国立公園)

 テポストランの大部分は共同体の土地で、サンタ・カタリーナ、サン・アンドレス・デラ・カル、サンファン・トラコテンコ、オコティトラン、アマトラン、イスカテペク、ウィロテペク、サンティアゴ・テペトラパなどの集落がある。どの集落も共同体の土地が高速道路拡張工事で分断される恐れがある。この地域は、1937年に当時の大統領ラサロ・カルデナスによってテポステコ国立公園と宣言された。1988年 には、アフスコ・チチナウティン生物回廊として宣言され、2000年には、地域の資源は領域環境整備計画によって守られるようになった。

行政区

         テポストラン行政区の集落.

 オスベリアにとって、高速道路反対闘争は生命をめぐる闘いそのものである。そのため、半世紀以上も、彼女は村の住民とともに闘ってきた。テポストラン住民にとり、領域防衛は新しいことではない。抵抗は彼らの生き様にほかならない。住民は、エミリアノ・サパタやルベン・ハラミージョ【1900~62年、モレロス州の農民運動の指導者、】が人々を率いて闘ったメキシコ革命の時期の象徴的抵抗についてよく語る。その後、

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        高速道路は商品を輸送する金持ちのため

 1979年に、共同体の住民は刑務所の建設を拒むことになった。その後も、チャルチの丘【町の南側の丘】からテポツテコの丘【町の北側の丘】までのロープウェイ建設、チャルチの丘の麓に周回道路を作るといった様々な観光開発計画に対する反対運動を展開してきた。ずっと後には、反対運動の象徴的な抵抗であるゴルフ場建設に反対運動の先頭に立った。その運動は住民が自主管理を実践する場となった。
 1994年のゴルフ場建設反対運動は人々の記憶に残っている。「人々は立ち上がり、計画を食い止めた。だが、いちばん大事なのは、行政区首長が徒党とともに辞任したことである。行政区議会執行部はテポストランから逃亡した。なぜなら人々の闘いがとても強力だったので、居直ることができず、裏切り者として退去しなければならなかった」と、オスベリアは回想する。

リウス

        1994年当時庁舎に描かれたリウスのゴルフ場反対壁画

私たちは恐怖を制御できる
 テポストランで展開したすべての闘いと同じように、ゴルフ場反対闘争における女性の参加は決定的なものだった。「女性は自分で道を開き、闘いの先頭に立った。けれども男性の立場を奪い取るものではない」と、オスベリア先生は語る。「私たちの若者、子どもなど、男性はともに歩んでいる。なぜならもう闘いは全員のものだから」と、オスベリアは確信する。さらに、男性は、「昔から権力の座についていたが、上手に仕事ができず、権力を悪用してきた。今こそ、女性が参加する時である。私たちの母なる大地を愛する時である。それを学び、考える時である」。

ゴルフ

       再燃したゴルフ場計画の反対運動の壁画

 オスベリアは自らの経験をふまえて、次のように語る。女性たちは、「私たちは何が恐怖であるかを知っている。恐れを制御できる」。それゆえ、次のように主張する。「私たちも積極的に参加する時である。つまり、政治闘争において私たちは鍵となる存在である。なぜなら、私たちは騙されはしないし、誠意を持って行動しているから。すでに私たちは、同志や息子、兄弟に対して、女性が参加することについて納得させている。今こそ、私たちは団結し、マチスモや父権主義を終わらせる時である。女性が闘いの前線に立っているときには、男性は食事の準備など家事を助けるべきだ。私たちは時間をうまく配分しなければならない」。
 今の時代は、「知識と力を強める必要がある」と、80歳になった彼女は考えている。男性を無視することも、「女性を無視することもないようにすべきである」。彼女は幼少期から強い女性だった。何ごとに対しても努力を重ね、それを勝ち取ってきた。言葉こそ、彼女の武器だった。テクミルコ【テポストラン東北部アマトランに隣接する小集落】にあった祖父母の農場を裸足で歩きまわっていた時から、彼女はおしゃべりだった。ワラッチェを初めて履いたのは7歳で、小学校に入った時だった。
 アマトランやサンティアゴ・テペトラパ、イシュカテペクの村にある市場に、牛乳やカッテージチーズ、チーズや練乳を売りに行ったことによって、彼女にはおしゃべりが身についた。それらの村には小道を歩いたり、祖父がミサに同行する時には馬やロバに乗って出かけたりしていた。市場で7歳の頃から、父親が作ったヒカマ、トマト、ほおずきトマト、フリホール豆、サヤインゲンを売る手伝いをしていた。市場では耳を傾けるすべを習得した。「女性たちがヒカマを試食し、私にツォペリ、ツォペリと言った。それはナワトル語で甘いという意味だった。それから私にナワトル語で挨拶した。意味がわからなかったので、家に帰って尋ねた。昔は売ったらおまけを付けるのが習わしだったので、彼女らにもおまけをつけていた。だから、私にナワトル語で「ありがとう」を意味するトラソカマティと言った」。

手助け

        父の農産物を市場で売る手助けをした

 オスベリアは、祖父母と一緒に暮らすため、テポストランからイシュカテペクへ引っ越した。そこの小学校「航空遠征部隊201」【第二次世界大戦でフィリピン爆撃に携わったメキシコ空軍部隊に因む】を卒業し、テポストランの中学校を卒業、州都クエルナバカにある師範養成学校を卒業した。彼女が提出した論文は、生まれた村の健康に関するものだった。
 彼女の人生は、「長くてとても素敵だった」、と言う。「勉強した女性は使いものにならない」とされていた時代に、彼女は勉強した。兄弟の中で学校に行ったのは彼女だけだった。ほかの兄弟は学校に行くことを望んでいなかった。1951年、ちょうどオスベリアが小学校6年の時、村に最初の中学校ができた。オスベリアが「私は進学したい」と希望したので、家族は彼女を中学校に行かせることにした。その当時、女性が勉強できなかった理由は、人々がよく言わないというだけでなく、交通費がないためだった。この2つの障害は彼女にはなかった。
 「あの女たちを見てみろ」「どうして家にいないのか」「あそこをゴシップ好きの騒々しい女たちがうろつきまわっている」「どうして家にいて、洗濯をしないのか」。実際には家事をしているが、こういった悪口が村の女性たちに向けられていた。「女性は自分の家事をちゃんとしている。大急ぎで片付け、闘いの場に出かける。闘いに参加しない人たちはそれを知らない。そのことに無関心ないせいでもある」と、オスベリアは言う。
 中学校を終了し、彼女はその後の進路について考えた。勉強を続けたいことは明白だった。教育か、医療関係につくかで、彼女は葛藤していた。同時に裁縫の仕事にも興味があった。なぜなら、ある日、テホレーテ【石のすり鉢】が落ち、何枚かお皿が割れた。彼女は何とか早くお金を稼ぎ、新しい皿を買わなければと思った。母親は大した皿ではないと言ったが、「新しい皿を買うため、お金を稼ぎたい」と考え、裁縫コースなら手取り早い、つまり「お金をより早く貯めることができる」と、考えたのである。誰も彼女にやめろとは言えなかった。こうして彼女は裁縫の勉強を始め、気に入った。
 その後は、教師養成学校へ行った。パルミラ【州都クエルナバカ南郊にある町】の師範養成学校で勉強していたが、卒業前にパルパン【モレロス州北西部ミアカトラン行政区の集落】でインターンコースを履修するチャンスを得た。その後、留年することなく卒業するため、集中コースを取った。彼女に州の教員免許が与えられ、後に国の教員の免許も認められた。15歳の直前に、師範養成学校を卒業した。
 17歳で学位を取得し、それから多くの場所で教鞭をとることになった。彼女は徒歩や馬に乗って教える場所まで行った。だが、もっと多くのことを知りたかったので、プエブラに赴き、師範養成上級学校【1952年創設】で勉強することにした。そこで授業を受けながら、恋をし、結婚し、さらに勉強を続けた。

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     テポステコは、輝くもので騙そうとする人を信じるなと


やったぞ
 「26歳のときにテポストランで知り合った青年と、私は結婚することになった。私の村とは違う外部の多くの人から、私は求婚されていた。しかし、私はテポストランに帰りたかった。なぜなら村の丘陵がとても気に入っていたから。好みのテポストラン男性と出会うのは、かなり大変だった。村の中心部に住む青年が私を待っていて、恋人になるよう申し込んできた。
 私は、彼が学問を納めていないことを知っていた。彼は、中学校終了とともに、工芸の勉強のためにメキシコシティへ行っていた。私は彼に言った。『私を好きなの。あなたが学業に励んでいる証明書を見せてくれれば、恋人になってもいい』。さほど時間がたたないうち、エスメラルダにある国立絵画学校【当時はメキシコ市中心部のコロニア・ゲレロ地区】の入学証明書を示してくれた。私には選択肢がなくなり、許婚となり、まもなく結婚した。そう結婚した。それは私が28歳の時だった」
 私は恋人と一緒に、当時は空気がとても澄みわたっていたメキシコシティで博物館や劇場を見て回った。モディリアニやエル・グレコの作品展や、『シッ、鳴くな。毛をむしられた鶏ども、とうもろこしを播くから』という劇【エミリオ・カルバリド原作のベラクルスを舞台とした政治風刺劇、1963年初上演】を見また。結婚から30年後、彼は肺炎で亡くなった。6人の子どもは、「うまく計画し、男女3人ずつできた。長男は、少し大きくなった時に登録した。彼が自分で名前を選べるようにした。村の決まりに縛られることなく、子どもたちは誰も洗礼しなかった。結婚した後も32年間、ある寄宿小学校で教鞭をとり続けた。
 彼女の夫は1994年に亡くなった。それはゴルフ場建設に反対する闘いが始まった時だった。それまで、彼女はロープウェイ建設、観光列車の敷設、外周道路建設に反対する闘いに参加してきた。つまり、反抗心がある彼女はどの場所にも姿を現していた。初めは長男を背負って、ロープウェイ建設反対集会へ参加した。「夫はとても驚いた様子だったが、何も言わなかった。集会が終ると、夫は『家へ帰ろう』と、言った。私は、『やったぞ』と、思った。このように、私はあらゆる闘いに参加した。なぜなら、ここテポスランでは、女性はとても活動的だから」。
 ドニャ・オスベリアは、現在の高速道路拡張工事に反対する闘いにフルタイムで参加している。「自分の仕事を急いで片付け、出掛ける」。何人かの子どもは、「もう年なので、危ないから」と、意見するが、彼女は80歳という年齢以外、何の問題もないと返答する。「若い人たちが始めた闘いで、同志はとても私によくしてくれる」。今では闘いの同志は、家族の一員のようなものと、彼女は言う。

今は人々が主人公の時

女の子

     人々の時代。全面的に輝き善き暮らすことができる

 テポストラン領域防衛戦線は、先住民全国議会(CNI)とともに、先住民統治議会(CIG)創設に参加することを決めた。CIGは人々の闘いを組織、可視化することを目的にしている。テポストラン住民の何名かは、チアパス州のサパティスタ共同体を訪問し、サパティスタ民族解放軍(EZLN)の土地で何度か開催された新自由主義に反対する集会に参加した。「そこで、私たちはサパティスタの生活のあり方を知った。それは健康的な生き方で、私たちすべての人々が、自由と平等とともに分かち合いたいと願っているものである。その生活ではすべてに偽りがない。そこは、愛や安心感に満ちている」と、彼女は語る。

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       CIG総会で承認されたオスベリア(左端

 彼女はCIG広報官と一緒に、サパティスタの5か所のカラコルを巡った。「サパティスタの人たちは私たちの仲間であり、サパティスタの考えに私たちは同意する。だから、決して容易ではないこの道を私たちは一緒に踏み出すことを決断した」。
 ドニャ・オスベリアの主張は明快である。「私たちを根絶やしにし、私たちの母なる大地を売り渡すこの腐敗しきった体制に、もう私たちは我慢できない。農民やそうでない人たちから、直接、母なる大地を奪っている。私たち先住民を絶滅させようとする。私たちが存在していることを忘れている。けれども、私たちはメキシコに生命を与えている先住民である。なぜならメキシコを支える基盤は大地であり、農民たちはその大地を耕している。それはわかりきったことである」。
 私たちを代表していると言う連中が、「自分勝手にできる時代はもう終わった」と、オスベリアは説明する。「連中は、自分たちが手にしていたものをうまく利用できず、バラバラになり、腐敗の道を辿っていった。私たちには悲しく不安定で悲惨な人生が残されてしまった」と、彼女は強調した。その変革は、「すべての人々の団結で実現するだろう。先住民だけではなく、都市に住む人も参加する。
 ここテポストランは、排除される人がいる都市ではなくなる。私たちはすべての人々が団結して歩むよう要請している。なぜなら、そうすることでしか、私たちの目標は達成できない。権力を独占している悪い連中を打ちまかすには、それ以外に方法はない」と、オスベリアは強調する。「連中に残された時間はもうなくなった。そのことは、彼らもよく分かっている。人々が主人公となる時が来ている。全面的に開花し、生活が皆にとって良いものになる時が来ている」
 オスベリアは立ち止まらない。彼女は30年以上も学校で教え、よく知られている。先住民統治議会の提案について、とても明晰でわかりやすく説明する。「私たちは、準備と知性で、変革を一歩ずつ進めていく」と、確信をもって言う。共同体のひとつのグループに、その行動計画を説明する。「私たちは、それぞれの村に赴き、これまでの闘い、悲しい出来事を、喜びについて聞いて歩く必要がある。団結することで、勝利できると説明しなければならない」
 抵抗の段階から、「私たちは、前進する段階にいる。私たちを代表しているという連中に染み付いた悪癖を一掃するため、少しずつだが着実に前進している」と、説明する。それには労力が必要で、「たやすくない」と認めている。だから「私たちは思慮深く、知性を備えなければならない。私たちへの待ち伏せが仕掛けられているかもしれない。どれだけの仕掛けがあるか、私には分からないが、私たちは、明晰さ、確信、信念と不屈の精神を持って、前進していく」
 広報官マリア・デ・ヘスス・パトリシオの大統領選挙候補者登録に向けた署名の成立[メキシコ登録選挙人総数の1%、約86万強が必要だったが、約23万筆に留まる]にかかわらず、大統領選挙に参加することに関して、先住民統治議会メンバーのオスベリアは明確に説明する。「すべては、参加し、可視化し、組織するためである」。財源とか特定の資金援助がなくても、「前進し続けるために支援をしてくれる人々の援助がある」
 先住民女性で、治療者で、CIG広報官のマリチュイについて、オスベリアは母なる大地を体現していると言う。「彼女は痛みがわかる。なぜなら治療者だから。私たちのこどものことをよく知っている。母だから」彼女が先住民を代表として選ばれたのは、「満場一致だった。偶然ではない。とてもきれいな活動履歴の持ち主だから。知的で、女性だからだ」
 オスベリア自身も満場一致で選出された。なぜなら、「そのことをテポストラン領域防衛戦線が決定したからだ」その決定について、数日間、考えることになった。なぜなら、「決心するのは容易ではなかったが、引き受けて、責任を取ることにした」

ポスター

      勧誘運動でなく闘いの継続を訴える任務

 自分の仕事は、とオスベリアは説明する。「勧誘活動ではない。私たちは、何かを約束し、提供することはない。そうではなく、人々に諦めるなと呼びかけ、闘いについて説明する」「恐怖を統制すべきである。分別をもつべきだ。弾圧されても沈黙すべきではない。それは絶対にダメだ」と人々を説得する。
 インタビューの数日前に、行政区の警察部隊は、高速道路に反対する活動家たちが継続していた役場前での座り込みを弾圧した。また、重機を止めようとした仲間たちも弾圧された。連邦警察、州警察、市警察がやってきて、全員を殴打した。弾圧の現場に最後まで残ったのは、オスベリアだった。「私は弾圧など怖くない。恐怖を統制する術を体得してきたから」と語る。

弾圧

       警察は高速道路建設に抗議する人々を弾圧

 この6年間の闘いにおいて、活動家たちを直接弾圧したのは、つねに警察であるとは限らなかった。行政区当局の役人や建設会社によって雇われた衝突部隊もいた。テポストランの共同体のメンバーは、衝突部隊のメンバーはテポストラン行政区のサンファン・トラコテンコ村からきている説明する。しかし、別の時は、行政区当局側に立つ活動をしてきた。それは、土地の半分を自分たちのものにしたいからだった。20年前に、テポストランがゴルフ場の計画を差し止めたとき、このグループは、個人的な利益と引き換えに、政府側に立って行動した。 
 オスベリア先生は言っている。「お金が必要なので、衝突部隊として契約する。250ペソをもらって、私たちを攻撃するようになる。とはいえ、彼らと話し合う必要があるし、自分たちのことをよく考えるように促さなければならないと、私は思っている。私たちの闘いは命をめぐる闘いであること、いくばくかのお金のためにやっている闘いではないことを彼らに説明する必要がある。彼らに解ってほしいのは、私たちが望んでいることは環境を救うこと、私たちの今いる場所、呼吸している空気、私たちが聞き、私たちを勇気づけ、新しい1日を迎えさせてくれる鳥のさえずりを救うことである」
 黒いショールをまとい、丈の長いスカート、多彩色の花の刺繍が施されたブラウスを着たオスベリア・キロスは、テポストランと同じように、抵抗していることを宣言する。「誰も私たちが何をすべきか言ってくれないだろう。私たちは何が良いか知っている。私たちの存在を毅然と委ねたい。私たち自身が組織化を進め、メキシコと呼ばれるこの国の先住民族の人々とともに、一歩ずつ歩を進めていく」と、彼女は締めくくる。

土地認定

       遅延する共同体土地の認定要求の活動




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