荒野に咲く花々6-サラ
女性は今以上のものを求めてはいない。私たちの声に耳を傾けてほしい。
サラ・ロペス・ゴンサレス
カンペチェ州カンデラリア、先住民マヤ
サラは、監獄の騒音、扉をたたく音、打撃音を忘れるのにずいぶん時間を要した。それらは高額電気料金に反対する闘争で収監された11カ月間、彼女をギクッとして飛び上がらせてきた悪夢である。監獄の鉄格子が閉まる音を最初に聞いたとき、不当な収監であることが分かっているため、彼女は、負けるものかという勇気や憤りとともに無力感を感じた。国内外の世論の圧力によって釈放されると、サラはすぐに闘いに復帰したが、今度は不当な電気料金に反対する闘いだけでなく、マヤの土地を守る闘いに携わるようになった。現在はカンペチェ州の先住民統治議会(CIG)のメンバーでもある。
52年前【1965年】、サラ・ロペス・ゴンサレスは、カンデラリアで生まれた。咲き誇る花に囲まれた自宅の前庭に座ったサラは、彼女のグループとともに、全国先住民議会(CNI)の呼び掛けに加わることを決意し、「人々を組織」しようという提案の一翼を担うことになった時代を振り返る。2006年、EZLNが呼びかけた「別のキャンペーン」に参加した。このキャンペーンは、政党や選挙の枠組みから離れ、下のメキシコを巡り歩き、資本主義がもたらした掠奪、搾取、侮蔑や抑圧に立ち向かうために組織化しようと呼びかけるものだった。
CIGについて、サラは次のように説明する。「大統領の椅子を目的にしてはいません。人々の手による自己統治と組織化をめざしています。私たちが一つの共同体で進めてきた組織化を、州、ユカタン、全国レベルでも広げたいのです」。CIG代議員である彼女の仕事は、「地域を駆け巡り、提案の説明をしていくことです」と、サラは説明する。「私たちは大統領の座や政党になることを目指してはいません。私たちは政党のようになりません。他人を利用して生きる腐敗した存在にはなりたくありません」。そして、彼女はその違いについて説明してくれる。
カンペチェ州にはほかに8人の代議員がいます。「そのうち、グアテマラ国境隣接地域の2人の同志は、土地を守る闘いに従事しています」。地域が抱える諸問題に関してどんな解決法を提供してくれるのか、マヤの人々はサラを含めた3人に質問した。期待外れの答えですが、CIGの答えは解決法を示すというものではありません。「それは人々と一緒につくりあげるもので、どう統治すればよいというマニュアルはありません」。その例のひとつは、サパティスタの「よき統治議会(JBG)である。JBGもマニュアルを提示しません。しかし、それは一つの現実的な可能性となっています。「広報官のマリチュイもCIGも、あなたの抱える諸問題の解決のため、あれこれプロジェクトを提供します』などと言うことはありません。そんなことをしたら、政府や政党と同じ陥穽に陥ってしまいます」。
サラが組織化の難しさについて語っているとき、孫たちがトランシーバーごっこをしながら小学校から帰ってきた。家に入るとき、一人が突然立ち止まった。「こちらから呼びかけます。おばあちゃんはインタビュー中です。了解、どうぞ」。一方、小さな妹はすぐさまサラに近づき飛びついた。サラに抱きついてキスをしまくった。孫たちは遊び続け、サラと同居している家を駆けまわりつづけた。
「彼ら、子どもや孫のために、私たちは闘っているのです」とサラは言って、政党に関する意見を表明し、「政党は私たちを分裂させてきた」と指摘します。政党の宣伝は「村々や共同体に浸透しています。私たちはそれに逆らった動きを展開しています。私たちは人々の思想を変革する手段をもっていません。活動はとても大変だし、人々がものごとを違った目で見るようにするには、大変な仕事が必要です」。
マヤの代議員であるサラは、CIGの提案は選挙で終わるものではないと強調し、「これはとても長期にわたる抵抗の闘いのプロセスです。それは、選挙で勝とうと負けようと、投票しようとすまいと、2018年以後も続くものです。その目的は、先住民族もそうでない人も、農村の人も都市の人も、この国を組織化していくことです。少なくとも、私たちはその作業をすでに開始しています。私たちが新しい生活に到達できた時に、初めてこのプロセスは終わるのです」。
CIGは広報官に一女性を任命している。マリチュイの名で知られるマリア・デ・ヘスス・パトリシオが下のメキシコを巡歴するために実施したツアーの参加者の多くも女性でした。先住民広報官である一女性とともに、「私たちはここにいると世界に伝えたい。私たちが望むのはすべての人のための生活です。すべての人々と女性たちの言葉を一人の先住民女性を通して伝えるのです。それは、私たちはここに生きており、『もう、たくさんだ』と、この資本主義システムに宣告するためです」と、サラは説明する。
私たち女性はすごい存在である
サラの考えでは、自由に闘いに赴き、人々と信頼関係を築いている女性はまだまだ少ない。あるいは、人数が少なくないとしても、その姿が見えていないのが現状であると、サラは考えている。「これもまた、女性に向けられるいろんな意味での暴力のせいと考えられます。食事が熱すぎるだの、冷えているだの、コーヒーがまずいだのと、女性に対して、あれこれと文句をいう。そうしたことも暴力なのです」。
世界のほかの文化と同様、マヤ文化にもマチスモや女性に対する暴力が存在しています。「私たちの誰もが、世界中の男も女も、搾取されています。でも、女性に対する搾取はとくにひどく、女性は社会の周縁に追いやられています。女性が役に立つのは家の中だけ、トルティーヤをつくり、洗濯し、アイロンをかけるなど家事労働をするためだけだと言われます」。だけど、「私たち女性はそれだけの存在ではありません」と、サラは断言する。
「私たち女性はあらゆる役にたちます。多くをこなす能力があるのです。でも、私たち女性は、闘いだけでなくあらゆる分野で、地方レベルでも国レベルでも、私たちに対応する活動の場がほしいのです。社会体制でも、家でも、闘いの場でも、私たちはわきに追いやられたくないのです。今以上のものを求めているのではなく、私たちの言葉に耳を傾けてほしいのです。男性より前に出たいと思っているわけではありません。男性同志とともに歩むことで、この国を再建したいのです。男性同志に言っておきたいのは、私たちは男性より女性が上だと思いたいのではありません。闘いだけでなくほかの場でも、私たち女性の存在を認め、尊重してほしいのです」
「たとえばシュプヒルでワークショップを開いたとき、参加者は男性だけでした。シュプヒル先住民地域議会【CRIPX、1995年創設】の代表者の会議には女性は2,3人しかません。女性は共同体のレベルでは参加するけれど、共同体代表にはなりません。状況は複雑です。正直なところ、同志の社会活動家たち、彼らは、記者のあなたの目に映ります。ところが女性の姿は見えません。女性は子どもの世話をするために家にいるからです。サパティスタの男性同志と違っているのはその点です。彼らは家で子どもの世話や料理をしているのです」。
さらにサラは言いました。「共同体や集落での日常生活では、男性同志、あるいは男性が通ったとき、微笑んではいけません。こびを売っていることになるのです。でも、男性は女性に笑いかけても問題ありません。国内外では、暴力は女性に向けられます。女性が暴行され、殺されるのです。男性は殺されないと言いたいのではありません。でもそうした危険に会うのは、少女、既婚、高齢の女性たちです。家だけでなく、外に出た場合も、社会や路上でも暴力があるのです」。
サラは獄中でサパティスタ女性に関する本を読んだことがある。「サパティスタの状況を知って、思わず笑ってしまったので、とてもよく覚えています。『男性同志に組織をうまくまとめるように呼掛けました。彼らのせいで、私たちは前に進めないのだから。女性はいつも前進しているけれど、うまく前進できないのは、それは男性同志のせい』と、あるサパティスタ女性が言っていました」。こんなうまい表現はないと、サラは言う。「私たち女性は、ものごとを素早く、てきぱきとこなします。私たちは力強くて、役に立ち、多くの能力をもっています。同時に多くことをこなすことができます。私たちは、母、姉妹、娘、祖母であり、闘う女であり、組織活動家でもあるのです。私たちはすばらしい人間です」。
闘いに赴くことを自由に決め、人々と信頼関係を結べる女性はまだ少数とサラは考えている。少なくはないとしても、その姿が表立って見えることは少ないと説明する。「これもまた広い意味では、女性への暴力が原因です。料理が熱いとか、冷たいとか、このコーヒーはまずいと、叫ぶこともすでに暴力です」。
マヤ人は今も生き抵抗する。博物館の展示品ではない
マヤは、世界中でよく知られたメソアメリカの文化である。同時に、観光産業や文化産業にもっとも搾取されている文化のひとつでもある。「超自然」のミステリーを研究するペテン師や自然資源やマヤの考古遺跡をむしりとる企業の商品にされているが、この千年を超える文化は現在も生きているし、抵抗している。歴史の教科書では、栄光だった過去と現在を区別している。しかし、今も存在を消されることに抵抗し、政府や企業によって今はやりのコンサート会場【2008年プラシッド・ドミンゴがチチェン・イツァーでコンサート、サラ・ブライトン、エルトン・ジョンも。2010~17年は禁止、2018年ユカタン出身のアルマンド・マンサネロのコンサート実施】としか見なされていない聖なる場所を自らのものとして取り戻そうとしている。
数字のゼロを発明した文化、天文学や狩猟に長け、壮大な建築物を造営した男女の末裔だが、サラは自宅からわずか数キロのティグレ考古遺跡に入場するために入場料を払わなければならない。アカラン人の都とされるこの壮大な遺跡の場所で、ヘルナン・コルテスがアステカ最後の王クアテモックを殺害した【ホンジュラス遠征中の1525年2月、アカトランの都イツァムカナクでクアウテモックを絞首刑】。サラは遺跡の建物を堂々と歩く。この地域の人はカンデラリア川流域で栄えたチョンタル人の子孫である。サラの母はタバスコ州の出身だが、この地に生まれたサラはマヤ人だと自覚している。
幼少期からサラは野山を駆けまわり、トウモロコシを挽き、トルティーヤをつくってきた。少し大きくなると、ビー玉やコマ回し、ケンケンポン、サッカーなど男の子とばかり遊んでいた。おままごとや人形遊び道具は与えてもらえなかった。サラの父は「男の子がほしかった」と言っていたからだ。
イエズス会を、彼女は政治にかかわりはじめた。14歳になったばかりの時、解放の神学との出会いで新しい世界を知り、信仰と政治のワークショップに通うことで、サラは成長していった。「その当時は、思想を理解することに努め、後にそこで習ったことを若者の集まりで広めていきました。それがその後に何につながるのか、何も理解しないままでした」。教会では、ホセ・マルティン・デルカンポ神父が彼女に祈祷の仕方を教えるだけでなく、「キリスト者の本当の仕事は教会の外にある」とも語っていた。
その後、サラはシュプヒルに移住し【1983-1995年】、キリスト教基礎共同体の仕事に没頭し、若い女性たちと協同組合運動のワークショップを組織した。まだ遺伝子組み換えではなかった大豆の栽培も手がけた。大豆の加工、養蜂業、さらには店舗の経営も手がけた。
若かったサラは、共同体的活動を実践するために、カンペチェ州外にも出かけだした。サンディニスタのニカラグアにコーヒー収穫に出かけたこともあった【1991年3か月間、中部のマタガルパで活動】。カンペチェ州やキンタナロー州にやって来たグアテマラ難民の支援も行い、薬草や歯科のワークショップを開いた。
粘り強いという言葉ほど、この女性代議員を表現するのにぴったりの言葉はない。子ども時代には小学校に通っただけだったが、国立成人教育機関で中学校の課程を修了した。その後、メキシコメトロポリタン大学ソチミルコ校の学生や職業訓練提供のためにカンペチェに来た外国の医師による歯科と一般医療のワークショップを受講した。それは、彼女や仲間の女性たちが医療サービスの届いていなかった共同体に入っていくためだった。
根っからの「出たがり屋」のサラは、父親が押しつける束縛から逃れるため、母と共謀してきた。伝統では、女性が実家から出られるのは、結婚後からだった。サラと母親は、そうならないように手配していたのである。サラは「恋多き」女性ではない。最初の恋愛では、16年間の結婚生活が続いた。最初の夫とのあいだに4人の息子ができ、全員30歳を超えている。その後再婚することになり、20年前に5番目の息子が生まれた。最初の結婚生活でも二回目の結婚生活でも、サラは闘うことを止めはしなかった。子どもたちに乳をあげながら、共同体の人権や土地を守る活動に携わっていた。
共同体で離婚することは容易なことではなく、当たり前でもない。離婚に際して、サラは4人の子どもを連れて家を出た。当時、逮捕状が出されていたので、二重の意味での逃亡劇になった。前夫は、サラを当局に「引き渡す」と脅していた。シュプヒルの水不足問題をめぐって行われた2週間の道路封鎖に参加したため、サラには逮捕状が出ていた。闘争の同志たちは彼女を山に匿ってくれたが、前夫は彼女を探しに来て、「引き渡す」と脅した。そのため、すべての持ち物を共同体に遺し、サラは共同体を去らざるを得なくなった【1996年】。サラは4人の子と着の身着のままで、生まれ故郷のカンデラリアに帰ってきた。そして再出発することにした【1999年】。
当時、カンデラリアの人々は法外な電気料金請求に激怒していた。サラは町の中心に薬局を開いていたが、1,000ペソ【2006年の換算で約1.1万円】の電気代を請求された。やがて料金は3倍になり、サラは払えなくなった。その後、家族と協力して浄水器を設置したが、電気代を払うために働くようなものだった。「高額な電気料金請求に悩むカンデラリアの人に呼びかけ、80人が結集した【2006年8月】。こうして闘いが始まったのです」。組織化を呼びかけたのは、彼女と新しい夫とその兄弟だった。その後、彼らとともに「別のキャンペーン」というサパティスタ運動に参加することになった。
鉄格子のなかの9カ月【実際は11カ月】
数千人もの人が抵抗運動に参加し、高額な電気料金の支払いを拒絶する闘いと組織活動は数年に及ぶものでした。2009年、連邦電力委員会(CFE)は、職員の不法な身柄拘束という罪をでっちあげサラを告発した。彼女と夫【ホアキン・アギラール】は出頭を求められたが、当時上院議員のロサリオ・イバラ・デ・ピエドラ【政治的失踪者の真相究明を求める運動エウレカ創始者、1982年革命的労働党大統領候補、2006年労働党選出上院議員】は、彼らのために二人の弁護士をつけた。こうして電力料金値上げ反対全国市民ネットワークのダビド・ペニャが率いる弁護活動に合流することになった。
連邦検察庁 (PGR) はサラを起訴し、対話折衝の場が設けられたものの、その合意が実現することはなかった。反対運動は、CFE側が告訴を撤回することと引き換えに、カンペチェ州の行政区と州知事・議会選挙のための投票所を設けることに同意した。「協定書が交わされ、私たちは投票所の設置を認めることにした。しかし、その前に大規模な停電があった。それは政府との合意を裏切るものだった。我々を逮捕しないし、電力供給を怠らないという約束に背く行為だった。私たちは大挙して、CFEの責任者のもとに向かい、電力供給を復活するように強く要請した。責任者は、我々に同行すると言っていたが、実際は誰が参加しているかを監視するだけだった」。
CFEの代表は、同行する車がないので、サラに乗せてもらっていいかと尋ねた。サラは素直にその申し入れを受け入れた。「私が車を運転し、CFEの代表は助手席に座った。すると、彼の自由を不当に奪ったとして、私は告発されることになった」。政府は入念に計画していた。選挙が終わるや否や、当局はサラと4人の仲間を逮捕した。2009年7月9日のことだった。
午前5時、家の扉を激しくたたく音で、彼女は起こされた。息子たちの叫び声を聞いたサラは、「なにが起きているのか理解できないまま」起き上がった。連絡先リストを保存するため、携帯電話を手に取った。男たちが入ってきた。「恐怖はなかったけど、憎しみと怒りと無力感が沸き上がった」。当局は彼女と夫を車に乗せ、頭を足の間に挟んだ状態で、3時間半近くもかけて移送された。
「カンペチェ市のPGRに着いたとき、体の節々が痛く、目は腫れ熱もあった。車から降りたとき、他にも3人の闘争の同志も捕まっているのが分かった。私たちが逮捕された場合、動員をかける役割を依頼した人もいた。一人の女性同志は泣きじゃくっていた。私は責任を感じていた。私たちが抵抗運動に誘ったので、彼らは参加したからである。私は気を強くもとうとした。いろんな角度で撮影されたあと、サンフランシスコ・コベン刑務所に入れられた」。そこで活動家5名は男女に分けられるので、抱きあって別れた。5名は公務員の不法な身体拘束と公共サービス妨害の容疑で告発された。
監獄でサラは本領を発揮することになった。恐怖にもかかわらず、不当な扱いに抵抗し、刑務所の看守たちや女性刑務所長にも立ち向かった。まちがいなく、彼女の人生でもっとも困難な9カ月だった。弁護士団の要求で、彼らの身の安全を守るため、安全な場所にいっしょにいることができた。「ここには安全な場所なんかない。でも診療所に送り、5人が一緒になれるようにする」と、女性所長は言った。
収監されている間に、サラは100枚以上のテーブルセンターを縫い、読める本はすべて読んだ。同時に、彼女の人生に関する覚書を書き始めた。刑務所での日々の出来事、活動家で人権擁護に携わる友人のベアトリス・カリーニョ・トゥルヒーヨ【オアハカ州の共同体支援活動組織CACTUS代表、2010年4月27日、先住民族のトゥリキ自治区で連帯活動中に準軍事組織に殺害】の殺害を知らされたときに感じた怒りと痛み、息子が転んで記憶喪失になったこと、書くことで軽減できる様々な苦しみを書き残すようになった。
刑務所の外でも、状況が好転する気配はなかった。警察は彼女の息子たちを追いまわし、家の上をヘリコプタが旋回することもあったという。「まるで、ひどい捕り物劇が展開していた。闘争の同志にも36件もの逮捕状が出されていた」。こうした状況のため、彼女に悲しむ時間はほとんどなかった。刑務所からも、運動の仲間と会合をもち、戦略を考えた。彼女が逮捕された日、刑務所で彼女は逮捕令状が出ている仲間のリストを見ることができた。サラはそれをできるだけ記憶し、機会を見つけて彼らに連絡し、身を隠すように伝えた。
彼女の拘束については、釈放を求めるキャンペーンが国内外で組織された。5人は15日間に及ぶハンストを実行し、アムネスティ・インターナショナルもこの事案をとりあげた。そうした圧力が強まった結果、保釈金支払いで彼らは釈放された【サラら3名は2010年6月、一人3,300ペソの保釈金】。監獄でもやめなかった組織活動の仕事をつづけることよりも、釈放されるのには時間がかかった。
CFEの電力供給と料金に抵抗する運動が始まって11年が経過する。抵抗運動の要求は、電気は人権であることの確認と2カ月単位の支払い可能な電気料金の設定である。高額な電気料金支払い拒否は平和的な抵抗運動の最初の行動だった。80人から組織を開始したが、2,3カ月の間に、カンペチェ州内の30共同体から3,000人もが参加するようになった。もっとも代表的な抵抗運動のひとつは、CFEが新たな電気メーターを設置しようとしたときのものだ。人々はそれをすべて取り外した。「それは、私たちから多くを盗み取るためのものでしかない。CFEは勝手に電気メーターを操作するから」。
正当な電気料金の要求への回答は弾圧である。インタビューをした数日前、一人の仲間が逮捕された。サラは刑務所に行って面会し、家族とともに釈放の手続きをした。「CFEはデジタル式の電気メーター設置を強制的に推進している。私たちはメーター設置に反対しているが、迫害や弾圧にさらされている。木曜には、同志のホセ・アルベルト・ビジャフエルテ・ガルシアが令状なしで逮捕された【デジタル電気メーター設置反対で2015年10月に家宅捜査、2017年11月9日逮捕】。裁判所で尋問があると言って連行し、フランシスコ・コベン刑務所に収監し、25万ペソの保釈金を私たちに要求してきた」。内務省と国レベルのCFE代表が調印した合意にもかかわらず、ビジャフエルテは、電気を盗んだ容疑で告発された。「これが運動の現状なのです」と、サラはまとめた。
破壊的なアフリカ椰子、掠奪と搾取
カンデラリアに至る道の両脇にはアフリカ椰子の農園が広がる。アフリカ椰子は環境や文化的多様性を破壊する作物である。アグスチン・アビラ・ロメロとレオン・エンリケ・アビラ・ロメロという兄弟研究者は、巨大な資本と広大な土地を保有する新たな担い手が、アフリカや南米、アジアと同じやり方でカンペチェでもこの植物を栽培していることを記録してきた。アビラ兄弟の研究によると、そのモデルは契約栽培の形をとっており、「アフリカ椰子を植えるため、農民は森林伐採に駆り立てられ、農民経済は商業化し、外部エージェントの参入とともに農民や先住民グループの固有の文化的実践は損なれる」。兄弟の説明では、多国籍企業はアフリカ椰子を「ニッチ」の作物ととらえ、食品加工業や化粧産業に椰子油を供給するとともに、副産物のペーストをバイオディーゼル燃料に転用しようとしている。
カンペチェ州政府がカンデラリア、パリサーダ、エスカルセガ行政区の12万haにアフリカ椰子を栽培するという計画を発表したことをサラ・ロペスは指摘している。「多くの共同体はその計画に反発している。しかし、ほかの共同体では、計画を生存戦略の手立てと考えている。それは、大地の荒廃、土壌や大気汚染の問題があることをそれらの共同体がよく知らないためです」。サラは次のように説明を続ける。「アフリカ椰子の単一栽培は、大量の水を使うので、少しずつ川や泉が干上がり、共同体にある湧き水を干上がらせている」。実際のところ、「かなり前からアフリカ椰子を栽培していたペドロ・バランダ共同体では、湧き水が枯渇した」とサラは言っている。
アフリカ椰子栽培は、それ以外にも被害をもたらす。「アフリカ椰子を植えた場所は土地が痩せるのでほかの作物を栽培できなくなる。さらに大量に使用する農薬で土壌、水、大気も汚染される」。サラはこれを悪循環ととらえ、水質の汚染は魚の大量死を増やしていると指摘する。1例として、カンデラリア川沿いのアフリカ椰子の製油施設があり、今年の洪水の際、施設が大量の油を直接川に放流したため、海洋生物の大量死をもたらしたことをあげた【2017年6月、下流のテルミノス潟に流入・汚染】。
アフリカ椰子のプランテーションへの土地の売却や貸し出しによって、土地はやせ、インゲン豆やトウモロコシ、香辛料もつくることができなくなる。そこに、農民に畜産に従事させるための政府の融資プログラムがもちこまれ、「借金まみれになり、破産し、二度と立ち上がれなくなった」。それによって、多くの農民が、米国やユカタン半島の観光地に移住を決意し、そこで左官やウェイターとして働くことになった。米国のテキサス州のサンアントニオとフロリダ州は、カンペチェ州の人々が多く働く二大中心地で、サラの息子の一人も2年間の予定で働いている。
カンペチェ州は、メノナイト派【1920年代カナダ経由でチワワ州移住のドイツ系のメノナイトが1980年代に移住、現在約3万人定】の人々が導入した遺伝子組み換えの作物の問題にも悩まされている。カンデラリア行政区に近いチェトゥマル【キンタナロー州南部の都市】に通じる道一帯のチェネスの名で知られている丘陵地帯【ユカタン半島内陸の丘陵地帯】はもっともその影響を受けている。「遺伝子組み換え大豆をメノナイト派の人々が栽培しているのを見ることができます」。カンペチェ州都の東にあるオペルチェン方面では、遺伝子組み換えの飼料用ソルガムや大豆の栽培が拡大している。そこから、諸悪の根源である多国籍企業モンサントの遺伝子組み換えの種子が企業家たちによって拡散されている。
他にも、サラが長年暮らしていた先住民チョルの住む村シュプヒルでも、マヤの人々に対する差し迫った権利侵害の例がある。ここ地区の住民は、自分たちの領域へのアクセスも制限しているカラクムル生物圏保護区の布告【1989年、72万ha】によって立退きを余儀なくされたのです。サラの説明によると、「保護区発表で、多くの共同体が立ち退きさせられ、保護区の中核にあった多くの共同体は、今は耕作できない。家を建てるためヤシの木を1本伐採したくても、保護区内ではそれもできない。そんなことをすれば、投獄される可能性もあります」。つい先日も、保護区内で薪をとっていた一人の女性が軍に捕まりました。「軍に捕まるから保護区では薪も伐採できない。でも企業家たちは、拘束されることもなく、保護区に出入りし、やりたい放題です」。
シウダー・デル・カルメンやチャンポトンなど、楽園のような海岸に、観光プロジェクトが次々と持ち込まれていることも、不正のリストにあげられる。そこでは政府が推進している詐欺まがいの不正で土地が奪われている。それは天然資源の私物化であると、サラは説明する。土地の防衛に携わるサラは、人々にそうした情報を知らせ、カンデラリア川流域の開発権を与えたら、「住民は自分の土地なのに、荷物運搬のポーターになってしまう」と警告する。結論は明らかであるとサラは言う。「私たちが組織しなければ、私たちのものは奪われてしまう」。
何も無駄ではなかった
52歳のサラは、まじめな調子で、「何も無駄ではなかった」と断言する。ニカラグアにコーヒー収穫にでかけた際に、長期間にわたり母親なしにしてしまったことに関する子どもたちの不満も含めてそうだという。「子どもたちは、刑務所に入る前も、収監中も、出所後も、私とともにいました。そうやって助けてくれたのだから、子どもたちも闘いには賛成しています。現在では、子どもたちも大きくなり、働かねばなりません。今も動きまわっている私は、家族のなかで唯一の変人なのです」。
長い黒髪の巻き毛で、大柄で穏やかな笑顔をたたえるサラ・ロペスは、新しい連れ合いとともに、人生をやり直している。人生と闘いを楽しみ、踊りに情熱を傾けている。「機会があれば、毎日でも踊りあかしていた」とサラは言う。クンビアやサルサ、ロックでも踊れるという。シルビオ・ロドリゲス【キューバのヌエバ・トローバを代表する歌手、1968年デビュー】や1980年代の音楽、ロスアンヘルス・ネグロス【1968年結成のチリのバラード・バンド、現在も活動】、あるいはトリオ【ロマンチックな歌を得意とするグループ】も聴きつづけている。インタビューの最中もその前後も、鳴りやむことのない電話をサラはチェックしつづける。SNSを活用して、ほかの代議員たちとコンタクトをとりつづけている。
CIG広報委員会に所属しているサラは、情報提供をせかす報道関係者と対立することもあった。「CIGには、何か出来上がったというものはありません。私たちは自分たちで学びながら、創り出しているのです。他人を頼りにすることなく、私たちは実践と理論を繰り返しながら生きているのです」。
現在の連れ合いは、一緒にいる時間が欲しいと、サラに言っている。しかし、「運動、闘争こそ私の人生です。そのなかで、彼は私と出会ったのです。闘争から離れることは、私にはなかなかできない」。時に、ふれ合いや付き添いが足りないと感じることもある。とりわけ、今日のように同志が拘留され、悲しみがサラを包んでいる時は。「人間として、女性として、あなただって、人の助けは必要でしょ?」と、彼女は記者に笑いかけた。
参考動画
報告動画 https://youtu.be/mJFBYqKIuYI
電気料金不払い運動: https://youtu.be/xdNZvIDAd-M https://youtu.be/xdNZvIDAd-M
CIG代議員 :https://youtu.be/w7KCven-jVM
CRIPXの活動 :https://youtu.be/6OFhHbcQz4c https://youtu.be/6OFhHbcQz4c