兵主神社【滋賀・野洲市】
通称を「兵主大社」(ひょうずたいしゃ)といいます。
兵主神社(ひょうずじんじゃ)は近畿から中国地方、九州地方にかけていくつかありますが、ここだけが大社を名乗っています。
HPもなく、詳しいサイトも見当たらず、なぜ大社を名乗るのかは謎です。唯一、Facebookに神職の方が「兵主大社」と題して運営しているのみです。
20.315はFacebookに登録していないので(過去は登録していた時期もありました)、内容を確認できておりません。
ただ、他の兵主神社を調べていく内に、何となくわかってきました。なぜ「大社」なのかが。
それについては本文の後段で説明します。
さて、「兵主神社」とはいかにも物々しい社名とは思いませんか?
訓読みすると「つわものぬし」の神社ということになります。つまり、軍事の主、「軍神」ということです。
軍神や軍司というと、毛嫌いする人もいるかもしれませんが、これを「武神」や「武士」と置きかえると、景色が変わってみえたりしますから不思議です。
歴史家や歴史の研究者からはよく「人類の歴史は戦争の歴史だ」などといわれますが、実際のところ、わが国日本だって歴史の大半は「武家政権=軍事政権」で成り立っていたのが歴史的事実であり、常に、いくさ=戦争は身近に起きていました。
大雑把にいえば平安末期から幕末までの約800年間、日本は軍事国家であったともいえるわけです。
※明治期から昭和初期までは、近代国家としての軍事国家ですから、少々意味合いが違います。
武家政権=軍事政権であればこそ、武神=軍神を祀ることは自然な流れだったともいえます。
したがって、鎌倉幕府の源頼朝、室町幕府の足利尊氏、江戸幕府の徳川家康とその時代の征夷大将軍から篤い信仰があったとされます。
創建年代は不詳ですが、社伝によれば、景行天皇の時代に彼が皇子に作らせた大和国の穴師坐兵主神社(あなしにますひょうずじんじゃ)が起源とされます。彼が晩年、近江国に行幸した際、ここに遷座、のちの欽明天皇の時代に再び遷座して、現在地である野洲市(やすし)に落ち着きました。
要するに2回の遷座を経て、奈良から滋賀に移ったわけです。
が、実は奈良(大和国)の穴師坐兵主神社は、令和の今も現存しています。
遷座というよりは、実質的に分霊に近いのではないかと20.315は考えますが、時代の変遷とともに、やがてこの滋賀の兵主神社が武士、武家から篤い信仰を得て、いつの間にか「本家」みたいになったのでしょう。
かようにして、ここ滋賀の兵主神社は、いつしか兵主大社と呼ばれるようになったのではないかと思います。たぶん。
兵主神社から車で3キロ余り西の琵琶湖のほとりに、佐川美術館があります。実に瀟洒な作りで、所蔵されている作品も豪華。さすが、財力のあるSGHですね。
美術館巡りが好きな方にはおすすめのスポットですよ!
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【基礎データ】
■創建 不詳 ※社伝からは古墳時代か。
■祭神 八千矛神(やちほこのかみ)※大国主命(おおくにぬしのかみ)
■住所 滋賀県野洲市五条566
■HP なし