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葛城一言主神社【奈良・御所市】

「至福の像」はボケ封じの象徴なんですが、二人とも丸坊主頭で、テカテカに磨かれています。ここ葛城一言主神社(かつらぎひとことぬしじんじゃ)に参拝されるシニアの方々は、ことごとくこの頭を撫でて「ボケ封じ」を念じ、さらに光らせているわけですね。

20.315は「まだ大丈夫」と思っていますので、撫でていません(笑)。

一言主神社は全国各地にあり、関東では茨城・常総市に鎮座する神社が名高い神社ですが、総本社は、ここ葛城の一言主神社になります。

ご祭神は葛城之一言主大神(かつらぎのひとことぬしのおおかみ)と幼武尊(わかたけるのみこと)の2柱です。

一言主(ひとことぬし)は、単独の神様とされていますが、一説には大国主命(おおくにぬしのかみ)の子供である事代主神(ことしろぬしのかみ)のことではないか、という考え方もあります。

一方、幼武尊は第21代の天皇、雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)のことです。武勇伝多く、誉れ高い天皇です。

記紀には、葛城山中で狩猟していた雄略天皇の前に、一言主が現れて狩りを競った云々との記述があります。つまり、一言主は雄略天皇と同等の立場であった、ということになります。

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ここから時代は遡って、国譲りの日本神話に突入します。

「国譲り」は別タイトルとして「葦原中国平定(あしはらのなかつくにへいてい)」ともいわれますが、要するに出雲における「天」と「地」の戦争のことを指します。

「天」とは天照大御神(あまてらすおおみかみ)であり、「地」は大国主神と事代主神です。この両者の戦争は、結果的に天照大御神の勝利となり、彼女の5代後が神武天皇(初代天皇)であり大和国(ヤマト?)の礎となります。

雄略天皇は神武天皇から数えて21代目。その遥か昔に国譲りの戦いがあったにもかかわらず、雄略天皇と事代主神が狩猟で争っていることになります。ここから、数々の疑問が湧き出てきます。事代主神は一体、何歳まで生きたのでしょう?100歳?200歳?一方の雄略天皇も120年とかそれ以上か?との推測になります。

このあたりが日本神話の不思議なところであり、面白いところでしょう。
神話なんですから、いろいろ考えてもしょうがないとも言えますし、勝手に想像するのも自由じゃないか、とも言えます。

いずれにしても、神代系図で見ると、天照大御神と大国主神は親戚にあたります。「国譲り」の戦争は、親戚同士の戦争だったことになります。

そして、後世になって再び、雄略天皇事代主神が狩りで勝負したということで、これまた親戚同士の勝負だったことになります。まあ、日本の神々のストーリーは「万世一系」ですから、当然といえば当然ですが・・・。

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そして、幼武尊こと雄略天皇ですが、その類稀な政治力と軍事力により、ヤマト王権の統治を広げたがゆえに「雄略」と名付けられた可能性があります。大体、武勇に優れた方は、今でいえば「パワハラ」系とも揶揄されがちですが、彼もまた専制君主の一面があり、肉親の殺害や自身に反抗する地方豪族を殲滅するなどその傍若無人ぶりは「大悪天皇(はなはだあしきすめらのみこと)」との異名をも持っています。

こうした一方で、一言主と狩りを争った後、帰りに見送ったため「有徳天皇(おむおむしくますますすめらみこと)」という異名も。

うーん、一体、どっちやねん!って突っ込みたくなる神様ですね。

一言主が事代主神であると仮定すると、葛城一言主神社は、大国主命を祀る「出雲大社」、事代主神に加勢した建御名方神(たけみなかたのかみ)を祀る「諏訪大社」とも繋がる地(国津神 くにつかみ)の神社であることがわかります。

史実なのかフィクションなのか真相はわかりませんが、葛城一言主神社は「いちごんさん」として地元で愛されている神社であることに変わりはありません!

【基礎データ】
■創建 不詳 ※記紀から察するに古墳時代か?
■祭神 葛城一言主大神(かつらぎひとことぬしおおかみ)=事代主神?、幼武尊(わかたけるのみこと)=雄略天皇
■住所 奈良県御所市森脇432
■HP なし



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