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築土神社【東京・千代田区】

黒光りする顔に、口をカッと開き、魔を追い払おうとしているのか、あるいは参拝者に対して「ここの柱(神様)は畏れ多い祟り神だ、それでも参るか」と肝試ししているのか、はたまた、「よくぞ来てくれた、歓迎する」と大笑いしているのか・・・。

狛犬の表情が何を意味しているのか、それは参拝者の百人百様の捉え方によるのでしょう。

築土神社(つくどじんじゃ)は、実質的に平将門を主祭神とする、都内でも屈指の古社です。

所在地は「千代田区九段北」。九段下駅から徒歩数分の坂の途中に鎮座していますが、創建当初は「首塚」で有名な大手町にある「平将門の首塚」付近にあったとされます。

平将門。

平安時代中期の英雄、そして逆賊と呼ばれた男。
日本史上でここまで毀誉褒貶にあいまみれた人物も多くはありません。

築土神社1

第50代桓武天皇の子孫として、延喜3年(西暦903年)に下総・佐倉で生まれました。今の千葉県佐倉市ですね(※あくまで一説)。

青年期に京に出て、12年ほど衛士(えじ)を務めます。衛士とは宮中の警護する仕事で、いわば普通のお巡りさんです。桓武天皇の子孫ではありますが、京からみれば、坂東(関東)という遠い田舎から出てきた者をそんなに厚遇するはずもなかったのでしょう。

逆にいえば、天皇家の縁者でもあり坂東では相応の領地を持つ身として「なぜここまで冷遇されるんだ?」と心中穏やかでなかったに違いありません。

やがて彼は検非違使(けびいし)になりたい、と申し出ました。検非違使とは、いってみればお巡りさんの高位である、警察署長や警察庁の部長みたいなものです。当然ながら、その願いはかなわず、彼は坂東に戻ります。

築土神社2

坂東ではそのころ、平氏一族の内紛が絶えず上総や下野の国でも戦(いくさ)が続いていました。争いは、さらに武蔵、常陸の国をも巻き込みましたが、やがて平将門が上野国をも手中におさめ関東一円を支配下におきます。

彼はこの時、何と自らを「新皇」と名乗り出しました。
関東に、新しい天皇が誕生したのです!

冷遇された京への反発心からでしょうか?
関東という一大平野を手にして、思わず慢心してしまったのでしょうか?

それとも虚栄心からでしょうか?

一方、京から西に200~300キロ離れた、瀬戸内エリアでは時同じくして、藤原純友が朝廷に反旗を翻す「天慶の乱」が勃発!

二つの謀反の報告を受けた朝廷は、恐れおののきます。

朝廷はこの二つの謀反に対して、当然挙兵&討伐の命を下しました。

東国の将門と西国の純友はともに謀議を図っていたとも伝えられています。

築土神社4

朝敵となった将門は、天慶3年2月14日(西暦940年3月25日)、朝廷の連合軍が放った矢が額に命中して、坂東の地で討ち死にします。享年37、8歳。
駆け抜けた、短い生涯でした。

彼の首は、京に持ち込まれ七条河原にさらされます。
さらし首は時に笑い、目を見開いていたと噂され、京では「たたりだ」と恐れられたといわれます。

京から見れば朝敵でしたが、地元の関東では民衆から慕われた存在であったともいわれ、坂東武士の誇りでもあったとされます。

平将門に対する評価は今現在でも、正直、定まっているとはいえません。

ここ築土神社には、かつて将門の首を入れていた首桶(くびおけ)があったと言われ、その写真が築土神社のHPに掲載されています。

しかし残念ながら、昭和20年の戦災で焼失。

将門に関係する神社は、ここのほかにもいくつかあります。

鎧神社(東京・新宿区)、鬼王稲荷神社(同)、兜神社(東京・中央区)、神田明神(=神田神社、東京・千代田区)、御首神社(岐阜・大垣市)、将門神社(千葉・柏市)、國王神社(茨城・坂東市)など・・・。

いずれ神社アベニュ~でも探訪しますね。

【基礎データ】
■創建 天慶3年(西暦940年) 平安時代
■祭神 天津彦火邇々杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)、平将門(たいらのまさかど)
■住所 東京都千代田区九段北1-14-21
■HP 築土神社

※写真は全て20.315が撮影。
※兜神社、鬼王稲荷神社はすでに紹介済です。




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