3.自然治癒
「脳腫瘍です。緊急手術が必要です」
転機は1990年、当時2歳の次女の小児がん。
栃木県は自治医科大学の先生の言葉だった。
検査結果を待っている時に通された特別な待合室に、何人もの白衣の先生方がお越しになり、何か重大な事でもと不安がよぎった。
信じられない。まさに自分の腕の中で何もなかったかのように、すやすや眠っている娘の顔を見た。あの瞬間は一生忘れられない。思い出すだけで涙がにじみ出てくる。
1990年バブル真っ只中、当時三千万円台で都市近郊の現実的に通勤可能な範囲に持ち家が出来ずに、那須塩原に自宅を建て、新幹線通勤を始めてまだ間もない出来事だった。次女が良くふらつくようになっていた。どう見てもおかしい。ふらつく以外、元気そのものなのに。健保の配布物だった様に記憶しているが厚い「家庭の医学」のページをめくり脳腫瘍の可能性を強く疑い、すぐに自治医科大学へ直接行った。
脳外科の先生は「長女はそんなことはなかったのですが」の言葉に、すぐにCT取りましょうと言ってくださった。お蔭様で早期発見ができたと、今でも感謝している。
脳腫瘍は小脳と脳幹の間に卵のL玉と同じ大きさ。メデュロブラストーマ(髄芽腫)と呼ばれる最も悪性度が高いがんだった。水頭症を併発しており頭が破裂寸前、緊急手術となった。23時間にも及ぶ大手術、大学病院の先生方々には、大変なご尽力をいただいた。しかし除去できたのは、がんの1/3、まだ2/3もの塊が残っていた。生存についての言及はなく、当時はガンが自然治癒することはありませんと言われたものだ。当時最先端医療として、免疫機能に関する研究が進み始めたころで、免疫療法の一種であるLAC療法というのが最も希望が持てた治療だったと記憶している。もちろん放射線治療や抗がん剤もあったが、自分でも最先端医療について図書館や八重洲ブックセンターなどに通い調べれば調べるほど効果がないことを思い知らされることになる。気が付くと藁をもすがる思いで民間療法とも言われる代替療法を片っ端から調べていた。
こんなころ、この出来事は入院中の小児病棟で起きてしまった。今では聞かれなくなったMRSA(メチシリン耐性黄色ブドウ球菌)による院内感染だ。当時はメディアでも大きく取り上げられたが、抗生物質の多用が原因だった様だ。娘を含め小児病棟内ほぼ全員の患者さんが39度を超える高熱を発した。感染源となる点滴ラインは娘の入院来、初めて全て外されたのだ。当時娘は放射線治療の真っ最中、副作用で口からの食事を受け付けず、点滴だけが命綱の様な状況だった。しかし幸いにも、これより前から、知り合いから勧められた、液体の酵素と瑞芝液(当時日水製薬から発売されている健康食品)を混ぜたものを、先生の許可を得て飲ませていた。すぐにもどしてしまうことも多いなか、それでも付きっきりで注射器の容器部分を使って直接口にはこび、飲ませていた。その結果なのか、食事は全くと言っていいほど食べていないのにもかかわらず、毎日の血液検査は何時も正常値であり、何よりMRSAによる39度を超える高熱は娘ひとりだけ半日で熱が下がり、点滴が全て外されているため、小児病棟内をそれは楽しそうに走り回るようになっていたのだ。これには病院関係者の方々も驚かれるのと同時にほんとに喜んで頂いた。最先端医療と供に柔軟に対応いただけた先生方々、特に担当の赤岡先生には今でもたいへん感謝している。一度、長野で地域医療に取り組まれている先生の所へ感謝を伝えにおじゃましたところ大変喜んでいただけた。ほんとうに嬉しかった。
さて、それから約3か月に渡る入院を経て、これ以上治療する手段もなくなり、まだ1/3のがんの塊が残ったままだったが、退院させることになった。退院後は有名な漢方医のもとを訪ねてみたり、いろいろな文献を探したりしているなか、出会ったのがマックス・ゲルソンの「ガン食事療法全書」と、自ら「星野式ゲルソン療法」を実践されていた星野仁彦医学博士だった。なんとここにはガンは自然治癒すると書かれており、お医者様自身が実践されているではないか。希望の光が見えた瞬間だった。
ここから約2年間、星野式ゲルソン療法を中心に、自然療法と呼ばれるもので 「自然の摂理に照らし合っている」 と考えられるものはなんでも積極的に取り入れた。この考え方は自分の中で最初から確立したものではなかったのだが、待ったなしの状況で何とかしなくてはと前に進んで行く過程で確信していった。当時は信頼できそうと思ったものは手当たり次第にやってみたと言うのが正直なところだ。信頼できそうとは言え、不安を取り除くことが出来る訳もなく、娘ひとりではなく家族全員で不安を抱えながら実践していたと言ったところだ。
それから、退院後のちょうど1年目、1ヶ月に1回の大学病院での定期診断の日、退院後から次第に小さくなっていったガンは1年かけてMRI画像から消えてしまった様に見えた。
「完全に消えていますよ」
先生からそう言われた時の響きと喜びは今でも忘れられない。
この間、そしてその後も長い間、ゲルソン療法をサポートしていただいた医聖会の皆さま、並びに新鮮なニンジンや多くの有機野菜を届けていただいた千葉県を中心にした有機農家の方々、青森県は竹嶋有機農園さんのリンゴ。そして何より、当初から励ましていただいき、一緒に星野式ゲルソン療法を指導、実践いただいた星野先生。この皆様に娘の命を助けていただいたと、この場をお借りしてあらためて感謝申し上げたい。
このがんが完全に治ったという事実、今ではエピジェネティクスと言われ、エビデンスが出て来ている。
この事実は、まさに家族で実践してきたことが、ほんの一部であってもエビデンスとして追認され、「自然の摂理に照らし合っている」 と考えられるものを実践したこと、その結果として生かされた、生かせてもらえた、と考える様になって行った、この考え方の結果だと確信している。
さて当時、自宅は那須塩原にあり次女の退院後も東京へ新幹線通勤を続けながら11年間、次女に有機野菜を食べさせたい思いから、この地で週末農業をやりはじめることにした。近くで唯一の有機農業を営む農家の方から5アール程の農地をお借りし、手ほどきをいただきながら野菜作りを楽しんでいた。そんな中、有機農産物の対価の低さを知ることになり愕然とすることになるのだが、今のようにインターネットが普及しておらず販売に大変ご苦労されている現実を目の当たりにし、命の対価があまりにも低く取引されていることを考える様になっていた。
その当時から現代社会を顧みると、命の源であり一番大切であるはずの一次産業よりも、あまりにも二次、三次産業優先の偏重した経済社会へと変貌していたし、自分自身もまた同じ考えだったのだ。そして人の幸せは健康あってのことであるはずなのに、主要因である自己疾患が原因で健康寿命は、悪化の一途、大量の薬を消費しながら命を繋いでいる社会に診えてしまう。一方、感染症は征服したかのような現代医療もコロナウイルスの出現に大きく揺さぶられている。
この現代社会が健康で幸せな社会になるためには、「自然の摂理に照らし合っている」 生き方が問われているように、私には感じられてならない。
このことを考える上で、現代社会全体の考え方が人間から自然を見る方向、つまり「人間中心の考え方」 に偏重していることに思いが至った。言い換えれば、全てにおいてエビデンスを求め、エビデンスがないものは認められないという方向性の考え方。もちろんお金で取引する経済合理性を追求する資本主義社会では責任が伴う社会的な考え方であることは理解できる。しかし、これだけでは今後ますます社会は行き詰まり、今後生きていけない、生かせてもらえない可能性を感じている。
なぜなら「人間から自然を見る方向」だけでは、まだまだ自然の摂理のほんの一部を見ているだけに過ぎないからだ。もちろんエビデンスを求め自然の摂理を探求し、ここで生まれるテクノロジーを活用することには大いに賛成だ。しかし、一方では自然から人間を見る方向の「自然中心の考え方」の必要性が感じられてならない。「自然の摂理に照らし合っている」 生き方のためには「自然から人間を見る方向」の考え方も必要になる。なぜなら人間は自然の一部だからだ。
このことを、次女の病気へ当てはめて考えてみると、前者の「人間中心の考え方」はエビデンスに基づく対処療法的な現代医療の考え方だ。もう一方、後者の「自然中心の考え方」は、なぜ自分自身の細胞なのに反乱を起こしてしまったのか、根本治療を目指す漢方医療的な考え方だ。この両方が合わさって「自然の摂理に照らし合っている」生き方が出来れば、結果的に生かされ、生かせてもらえることになると考えている。これは幸せな生き方とも言えるかもしれない。
さて、ここまでくると、「人間中心の考え方」とは何か?「自然中心の考え方」の考え方とは何か?さらに掘っていきたい。そもそも人間も自然界の生物として生きている。もっと言うと、完全に自然から生かされている生物だ。この自然から人間に対し、進化の過程で与えられたもの、もしくは人間が自然界から獲得したと言えるものの中で、生きる上で最も重要で、人間として特徴的なもの。それが欲望と理性だという思いに至った。「人間中心の考え方」で優勢なものが欲望(欲求)。「自然中心の考え方」で優勢なものが理性だと。前者欲望は頭が司り、後者理性は心が司る。つまりこれからは心の時代と言われる所以だ。
欲望(欲求)はマズローの言う段階が有るにせよ、どの段階にも際限がない。どこまで行っても欲には切りがない、また達成したとしても充足しか生まれない。一方欲望を抑えることが出来るのが唯一理性だ。理性を働かせれば、結果として心が触れ合い、心が満たされ、喜びや幸せが生み出される。
この、人間にとって最も「自然の摂理に照らし合っている」こと、これは生物共通の自然の摂理といっても良いことであり、それは最も幸せなことだと感じる。それは、子供が生まれたとき。孫が生まれたときだ。生物すべてが同じではないかと感じる。
私は宮崎県椎葉村で縄文時代から4000年、今も脈々と受け継がれ、1000年先も見通せる、焼き畑農業で生きていく、「クニ子おばばの言葉」が大好きだ。焼き畑農業と言えば、世界的にはあまり良くないイメージをお持ちかもしれないが、椎葉村の焼き畑農業は真にカーボンニュートラルで持続可能な農業であり世界農業遺産である。
その「クニ子おばばの言葉」
「世渡りだもんね。世の中に生命(せいめい)がある限りは、なんにしても生き物は全部世渡りをせんば生きていかれんからね。何十年でも何百年でも何千年でも生きとるから自然とね。生きていて子孫残すためにちゃんと世渡りをする。」
自然は上手くしたものだ。つまり心に違和感があったり、心に引っかかったり、心が痛むものは悲しみを生み自然が欲望にブレーキをかけ、さらに試練を与えているとも考えられる。言い換えると「自然の摂理に合ってない」警告であり、現代の言葉で言うと持続可能ではないと言えると。
欲望と理性は自然物である人間の中で同居している。充足が生まれたとき、喜びも同時に生まれる。こんな生き方がしたい。
この「自然中心の考え方」である理性を司る心を養うためには、自然とのかかわりを常にもって生きていくこと、言い換えれば自然と最も関わりがあり、生きていく上で最も大切な一次産業に繋がり体現しながら生きていくことだと思ってやまないからだ。そうすれば、きっと社会も自然治癒する。
国民の99%の都市的生活者は、この考え方に疑問符がついていることだろう。頭ではなかなか判らないことだからだ。特に、この地球上の自然界の生命において、人間だけが獲得した左脳を鍛え活用して生きている「人間中心の考え方」の現代社会で生まれ育った人ほど判らないと感じているからだ。なぜなら私自身がそうだった、いやまだ完全には自然治癒していない。病気になった経緯と同じ時間の経緯で自然治癒していくからだ。治療方法は「自然とのかかわりを常にもって生きていくこと」これも自然の摂理だから。
このことは、これが正しいとか、間違っているというような内容ではない。誰しもが病気にかかるし、薬や手術の治療のお蔭で治るのだが、最後は真に自然から与えられた人間の自然治癒力で回復し治るのと同じ様な話だと感じているからだ。
なので、私なりに調べてみた最新の研究成果のエビデンスからこの考え方を裏付けてみようと思い、更に書き進めてみることにする。
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