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ニーチェその6
前回の続き
ニーチェがなぜパウロ以降のキリスト教がヨーロッパに蔓延させたルサンチマンが人々を屈折させると執拗に訴えたのか?
今回もFOR BEGINNERS ニーチェ(竹田青嗣)より引用させてもらう
→この反動的な価値評価としての『善・悪』はやがて人間の心に【負い目】【良心の疚(やま)しさ】なるものを生み出すことになるーーー(本書81ページ)
これが原罪の考え
人は生まれた時点で罪を背負っているというもの
これを生まれながらに【足りない】と思い込まされている
これがニーチェが戦っていた問題だった
→こうしてヨーロッパのキリスト教の歴史は、人々に、超越者(=神)に対していわれのない内的負債を負っていると思い込ませる
奇妙に傾倒した制度となったのである
『善・悪』という反動的価値は、まだ敵を眼前に持っているーーーところが【良心の疚しさ】の本質はもっと具合が悪い。なぜなら、それは、敵に向けられた憎悪や攻撃本能をその所有者自身へ向け変えることだからである
そこでもはや『悪い』のは眼前にある敵ではなく
神への負債を持つ『この私』に他ならないことになる
キリスト教が作り上げたのは、こういう奇怪な制度だが、それは普通考えられているよりもっと重大なことなのだ、と
ニーチェは主張する(本書82ページ)
アメリカ人のようにクシャミをするたびに『blessed you』(神のご加護を)なんて言わない日本人
一見キリスト教とは縁遠いと思うけれど
自分がここに居てもいいのか、という不安にはほとんどの人が晒(さら)されている
仕事の面接
いい関係性が築けない上司
新しい職場
大勢の人の前
知らない人
そんな状況に立たされると
『どうしよう、どうしよう』と考えてしまい
自分が取るに足らない存在だと思い
これは仕方がないことだと思い
スポーツや、YouTubeやネットフリックスみて、セックスして、SNSして、曖昧にして忘れる
これが人を無能にする仕組みだと教えてもらった
ニーチェ批判したキリスト教の波がご多聞に漏れず日本に伝播してるではないか
→キリスト教のモラルの本質は、単に『善悪』の反動的価値基準を根に持っているというだけではない。それはこの屈折を内政させ、復讐のエネルギーを自己自身に向ける。ーーー人間の自然な肉体とエロス、現世における性の欲求、これらに対する敵視ということだ。つまりそれは、生一般への徹底的な否定ということを導くのである。(本書82ページ)
男が勃起すること
女が濡れること
犯したいと思うこと
犯されたいと思うこと
護りたいと思うこと
護られたいと思うこと
原始的な欲求、、、
なぜか語ることは野蛮なことになっているけれど
そういう感覚が備わってるのが事実
体を見れば一目瞭然
なのにそのことに負い目を感じさせて
生まれてこなきゃよかったのに
と感じさせる【なにか】
ニーチェはこれと戦っていたのか
お前は戦わなくていいのか?