広い視野を持つこと。
梅雨ってもう入ってるのか?
テレビを全く観ないと梅雨入りしたかどうかすら分からなくなるんだなと実感する。
いや、そもそも気仙沼にいる時もテレビなんか観てなかった。
なのに、梅雨入りしたかどうか知れていたのは、やっぱりそれだけ人から情報を仕入れていたからだろう。
仕事をすればまた状況が変わるかもしれないけど、人見知りな私でも人恋しいという気持ちが拭えなくなってきている。
朝起きて、化粧して、洗濯機を回して、転職に向けての作業や勉強をして、夕方になってきたら買い物に行き、ごはんを作り、風呂を沸かし、寝る。
わりと嫌いじゃないというか、むしろこういう生活は全然好きなのだけれど。
夫と話さないわけではないし、気仙沼の友人たちとLINEやSNSでのやりとりもあるが、なんだか人恋しい。
そう思うのはそれだけ気仙沼での人間関係が濃ゆかった、という証拠かもしれない。
コミュニティを複数持ちましょう、みたいなことを聞くようになったけれど、それの意味するところっておそらく「視野を狭めない」ということなんだと思う。
ちょっとセンシティブな例えにはなるけど、学校に居場所がないと感じている子に学校の外に居場所を提供するのって、単なる箱としての居場所だけではなくて、「自分にも居場所があるんだ」と思ってもらうための心理的な認識の転換、みたいな側面もあるはずで。
これは例えの1つだけど、他にも「大卒だからネームバリューのある企業で働かないといけない」とか「この歳で貯金がこれだけしかないのはやばい」とか、こういった思考ってわりと陥りやすいし、陥ったことすら気づかないことも多いけど、案外自分と似たような境遇でも楽しく生きている人とかを見ると、ころっと覆ることも大いにあることだと思う。
私の場合、初めて気仙沼に行ったときがまさにそんな状態で。
大学卒業を控えているのに就職先が決まっていない状態で、「自分はクズだ…」という精神状態で訪れた気仙沼。
そこで、大学卒業後に移住して、働いている人たちに出会った。
しかも、企業の正社員とかではなく、「市役所の嘱託です」とか「NPO立ち上げました」とか、言ってしまえば”不安定”な働き方。
なのに、自分たちの活動や仕事や気仙沼というまちのことを楽しそうに語っていて、正直そんな人間を見たのが私は初めてだった。
そんな人たちの姿に、私の今までの価値観はころっと変えられた。
あ、大学に行ってもエリートにならなくていいんだ。
こういう生き方をしても良いんだ。
仕事って、楽しくやってもいいんだ、と。
別に誰に縛られていたわけでもないのに、私はいくつもの、世の中が提示してくる(と思い込んでいた)「べき論」に自分から乗っかり、そしてそこから転げ落ちてしまった自分を自分で責めていただけなんだ、と気づいた。
気仙沼に住み始めてからは、とにかくいろんな人に会った。
子どもからお年寄り、農家さん、漁師さん、議員さん、旅人、いろんな年代や職種、属性を持つ人と関わって話しているうちに、自然と凝り固まった価値観がほぐれていったんだと思う。
世の中にはいろいろな考え方をする人がいる、ということが知れただけでも万々歳だ。
「自分はこう思っていたけど、でもあの人はこう言っていたな」とか、そういった風に比較対象を持てたことで、自分の考えを客観的に見ることができるようになったのかもしれない。
ここまでの道のりは長かったし、もっと早めに訪れてほしかったと今でも思う。
でもそれが出来ずに一生を終える人もいる、と考えると、それだけでも気仙沼で暮らしたことは微塵も後悔する要素がない素晴らしいことだ。
話したり書いたりしているうちに何が言いたいのかわからなくなるのが、私の悪い癖だ。
何が言いたいかというと、人恋しいというか、あまりに急に他人と接しなくなったので、視野がまた狭くなってきていることを私は非常に危惧しているということだ。
まずこの視野が狭くなってきている、ということを自覚できただけでもセーフだと思いたいところではあるが。
気仙沼なら人と話す機会が多かったので、こういうときは割と自覚もないまま解消されていたことが多かった。
だが、ここは住み慣れた気仙沼ではない。
意識的に視野を広げるような情報を入れるしかないのだと最近思う。
それも、どちらかというと「~したほうがいいよ!」という情報よりは「大丈夫、こんな人もいるから君もなんとかなる」みたいな情報のほうが、今の私には適切かもしれない。
なぜなら「~したほうがいいよ!」の情報を仕入れすぎて、視野が狭くなりすぎた結果、ここ1~2週間毎日半泣き状態だったからだ。
「したほうがいいよ」情報は、取り入れすぎると「~しないお前は無能」みたいに勝手に私の頭が変換してしまうらしい。
どんだけ自分に厳しいんだ私。書いてて自分で引くわ。
結果として、夫には八つ当たりするし私の目は痛いしで、誰もハッピーじゃなかった。
仕入れる情報には気をつけよう。特に私のような人間は、「こうした方が良いですよ」という情報と「まあ最悪死ぬことはないんで、大丈夫っすよ」という情報をバランスよく取り入れたほうが良いということが分かってきた。
これも情報リテラシーというやつか。(たぶん違う)
何はともあれ、視野の広さって本当に大事だと思う。
都会での視野の広げ方を今後も模索していきたい。
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