失礼であることは、失礼であるに過ぎない。(止めましょう。のススメ)
きっちょうは、きっとある種の方々には“めんどくさがられること”をたくさん考えたりするのが、なんだか常です🤔
たぶん“出来てる・出来てない”で考えがちな方々の中には、あるのかも知れません。
(めんどくさーって思うのは、何かについて自分が出来ていない時…ことさら手を付けていなかったという場合は特に顕著?かなと思うから。)
正しさが常識になるのが不都合な人々や世間というものが汎く社会化していた場合…
ソレ駄目なんじゃない?って言われ始めたら、あまりのめんどくささに言う側の個々を被害妄想だとか病気だって言いたくなる…のかも?
(こうした記事を閲覧しても、面倒な反省しないで済む…ために?)
けど、きっちょう自身こそは、これらの考えに至るキッカケとなった数々の気付きは、自分の思い過ごしや勘違いなら…本当に被害妄想や病気だったら、どれだけ幸せかなって思ってますw
気がついたからには、具体より抽象で
只中の自身によるものではなく、その自身を社会ごと俯瞰で、言葉にすると…
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いわゆる、れっきとした「社会や組織団体への批判」と、馴れ合った世間の為すような“個人に対する嘲笑”は、全くの別モノ。
芸人でもない者を笑ってはいけない。
ましてや芸人であっても、舞台に該当する場から降りた、その人々の平素日常・素の時間を、舞台上と変わらず物笑いにしても構わないかのような扱いにまつわる行為や活動があるとしたら…ソレは人としておかしい。
人間として社会人として間違えている。
(芸人側も、勘違いしないでほしい。自らは笑われて構わないと定めれば、同じ人間は同様の失礼を許されるものと勘違いする者も現れるからだ…江頭2:50のように、明確に自身で説明をできる人は、今や本当にごく稀だ。)
女が嫌いな理由は、その連帯感を伝にして嘲笑を男性にも(またソレを利用するような男性側の界隈のためにも)感化・普遍化するところにも、一つある。
(老若男女とも「上を見て批判しろ・下を見て苛めるな。」…「卑怯は宜しく無い」という所か。)
嫌いな理由は…間違えていて止すべきことと思うには、自身の訴えることや発言についての正当性を、卑下し論点焦点をぼやけさせる作用に対して、時には迷惑を覚えたり、時には怒りを覚えるからなのだろう。
このように彼らの行いを“問題ある素行”として、失礼をはたらく慣れ合いな関係性と習慣化した振る舞いを(たぶん、こうして)「批判する対象」として明確に述べられてしまうと…彼らにすれば(批判する側にとっては、全くコンプレックスによるものではないということが覚られる点でも)おそらく不都合だから?何が悔しいのか(何か“嫌われ者として判りやすいアダ名”を付けて呼び倣わし、卑しんで貶めた状態に固定するかのように?以後も今後も、これまでのように変わらず下らない流布と自堕落な継承の暇つぶしで馴れ合い)笑い飛ばしたい幼稚さも…ソレは老若男女問わず、良質な実社会・本当に誰にでも心地良い世間や世の中にするのには、やはりあらざるものとして判りやすく理解されるため、嫌いな点だ。
きっちょう、女なんですけどね。
金魚のフンって言い方がありましたが…
たぶん小学校の時から、オンナ嫌いって言っちゃってる所があります。
でも、そーゆーのって、すること男子も女子も無かったかな。
自分がしたことで、言われたこともモチロンあります。
ソレで手痛い失敗として・あらざるは何かを反省した経緯があるから、ある程度は掴み所が判るのかも?
失礼かどうか・恥ずかしいかどうか…残念ながら論語的に言っても?凡人は何かに自信があるほど・経験に無いことは、また己と己の身内周囲には省みられにくくなり、落ち度に該当しそうな点は、ことごとく言い訳をしてしまうに足りるばかりでもあるようだ。
誰しも凡人なんだから、気をつけないといけないよね?って事だ。
気分は明治時代の文豪だw
芥川竜之介を“漠然とした不安”に貶めたのは、南無三おそらくコレだろう。
無念かな。
世の中、芥川竜之介だらけとあいなってしまったワケだ…
ダサかろうがなんだろうが、ならぬものはならぬから、世の中を悪くする人の業(わざ)は確実に退けねばならぬ。誰のための世間が寄り集まった世の中だろうか?
悪口陰口を楽しむような輩のために、実社会やあらゆる場があっては世は面白くなくなって当然だろう。
おもしろきこともなきよをおもしろく。
笑う者たちを客観できれば、これほど諧謔的で滑稽な人間模様は無い。
新時代余裕派の胃袋は、幼少のみぎりより甘党が故の夏目漱石のようには穴が開かない。
時代かな、代わりに心を開くしかないのだろう。
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今、外では…秋らしい秋を濯いでしまうような冷たい雨が降っています。
(R6.10.29.現在)